きれいに晴れた、美しい一日だった。赤城有料道路夏の香りはまだ充分にあるのだが、盛夏のころにくらべるとたとえば空はすいぶん高くなっていて、その高くなったぶんだけ透明さの度合いを高めていた。
雲は、これも正直者だから、秋の雲になっていた。風が心地よかった。この風にも、秋のいちばん最初のまえぶれが、はっきりと感じることができた。
ライダーであるぼく自身の体や気持の内部ではまだ夏がつづいていたのだが、外の自然環境はすでに夏の後姿を見送りつつあった。
風や陽ざしを感じとる自分の感覚に、さっくりとさけめができて、そのさけめのなかにまで風が吹きこむとき、わけもなくふと悲しくなってしまうような、そんな感じの一日だった。
陽ざしが輝いて風のきらめく午後が終り、夕方の時間へと入っていきつつあった。時間の進行がふと止まったように思える、しっとりとした手ざわりを持った、不思議な時間のなかを、ぼくは、ひとりで、赤城有料道路を頂上にむかってのぼっていきつつあった。
ゆるやかなS字のカーヴが連続していた。ゆったりした気持で、夏の終りの風を思いっきり楽しみながらぼくはカーヴのひとつひとつをていねいにこなしていた。
前方から一台のオートバイが走ってくるのが見えた。中くらいの排気量のオートバイで、いい感じで走っていることは、遠くからちらっと見ただけで、すぐにわかった。
ぼくのオートバイと、前方からくるそのオートバイとが、おたがいにカーヴをひとつずつ抜けては、たぐりよせられるように近づいていった。そして、ストレートの部分で、すれちがった。
そのオートバイのライダーは、女性だった。若い女性だ。ヘルメットはシート下のフックにかけ、かむってはいなかった。みじかめにしたカーリー・ヘアに、風をいっぱいにうけていた。
すれちがうとき、ぼくたちは、おたがいにVサインを出しあった。彼女は、ほんのりと、微笑をむけてくれた。
太陽は位置が低くなっていたから濃いオレンジ色の西陽が彼女に斜めから当たっていて、この光りをうけとめつつすこしまぶしそうに微笑してくれたあの顔を、いまでもはっきりとぼくは覚えている。ひきしまった表情の、きれいな、いい顔立ちだった。彼女のオートバイの排気音が、風にからめとられてぼくをまきこみ、ほんの一瞬だけ、ぼくは彼女と一体だった。
すれちがったその瞬間の、きわめてみじかい時間のなかで、ぼくは、視覚でとらえうるすべてのものを、とらえていた。視覚だけではなく、聴覚や嗅覚、それに風や陽ざしなどを感じとる体の表面の感覚、そしてさらにはもっと深いところにある感覚など、すべてを総動員して、たったいますれちがった若い彼女とそのオートバイを、ぼくは感じとっていた。
その結果として、素晴らしいものを、ぼくは見た。このときはじめて体験し、それ以来まだ一度もおなじようなことは体験していないというほどの、素晴らしいことだった。
ぼくひとりで勝手に素晴らしがって感動しているだけかもしれないかな、とふと思うのだが、何人かの友人たちに喋って聞かせたら、誰もが「それは素晴らしい」「素敵」と言ってくれていたから、きっとほんとに素晴らしいことなのにちがいないと、ぼくは感じている。
すれちがった彼女の、右のミラーが、ステーの先端からすこしだけさげてあった。まっすぐなステーだったから、きっと彼女の好みでとりかえたのだろう。ぼくも、標準仕様車についてくるくねくねと曲がったステーは、あまり好きではない。
このまっすぐなステーにつけた丸いミラーの、右側だけが、すこしさげてあった。当然、ミラーのうえにステーの先端が、突き出る。
この突き出たところに、丸くて赤い、大きなリンゴがひとつ、スコーンと突きさしてあったのだ。
すれちがいざま、ぼくは、はっきり見た。たしかに、リンゴだった。赤く色づいて丸く張りきった曲面にも、オレンジ色の西陽が当たっていた。リンゴは、ステーの先端で、得意そうに赤城山の風を切っていた。
写真:片岡義男
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