三樹書房
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60s
第7回 レース場にて
2012.5.28

 1962年(昭37)ホンダが三重県の鈴鹿に本格的なレースコースを開設し、翌1963年5月、戦後初の自動車レース「第1回日本グランプリ」がその鈴鹿サーキットで開催された(グランプリと名は付いているが、近年開かれているF1カーによるグランプリとは関係ない)。僕は当時長野に勤務しており、名古屋に居た兄の所に泊まって、兄弟で近鉄に乗って見に行った。兄と一緒だったせいかこのときは駐車場では1枚も写真を撮っていない。

(写真01-1)第1回日本GPで発売されたカーバッジとその頃作った「Bugatti T-35B」のプラモデル(エアフィックス32分の1)
(01-1) 第1回 日本GPで発売されたカーバッジ.jpg


(写真01-2) 最終コーナーとグランドスタンド(オーバースピードで踏ん張りきれず転倒する車が続出)
(01-2) 鈴鹿サーキット最終コーナーよりグランゴスタンドi_edited-1.jpg


 最初はグランドスタンド脇からコースの下を潜って反対側へ向かい、S字コーナー出口から100Rの見える付近に陣取った。
(写真01-3)殆どノーマルのままと思われるVWビートルの大群。(S字コーナー出口)
(01-3) VWの一群(S字コーナー).jpg


(写真01-4) 1300cc以下のGTクラスで優勝した「スプライト」。(レース後スクリーンの規格違反で失格)一緒に走った「コンテッサ」は既にギアボックス、サスペンションなどが改造されており戦闘力はあったが頑張りすぎて10ラップ目に転覆した。(01-4) GTレース(1300cc以下優勝)1958-61 Austin Healey Sprite(石津祐介).jpg

 
 
 
 そのあとヘアピン・コーナーに移動し熱戦を撮影した。
(写真01-5)ヘアピン・コーナーから立体交差方面。出来たばかりのサーキットは土手の芝生がまだ少ない。
(01-5) 鈴鹿サーキット・立体交差付近.jpg


(写真01-6)ヘアピン・カーブで接戦を演じるアストンマーチンDB4GTザガート(3.8リッター)とフェラーリ250GT SWB(3リッター)/全力疾走する本物のスポーツカーを初めて見て手に汗を握る。
(01-6) 1961 Aston Martin DB4 GT Zagato/1961 Ferrari 250GT SWB.jpg


(写真01-7)2リッターながら派手な逆ハンドルでアストン、フェラーリと互角の戦いを見せたポルシェ356B/2000GS カレラ2
(01-7) 1961 Porsche 356B/2000GS Carrera.jpg 


(写真01-8)線路の上を走っているように危なげなく、楽々(と見えた)ヘアピンを周って行ったロータス23はわずか1650cc ながらダントツの速さで総合優勝した。ドライバーは後年ロータスのチームマネージャーとなった若き日のピーター・ウオーだった。
(01-8) 1962 Lotus 23 (Peter Warr).jpg

 
 
 
 僕自身、本物のスポーツカーが全力で走るのを初めて見て興奮した、というより「はらはら」「ドキドキ」しながら観戦したが、参加したドライバーも一部の経験者を除いては、殆どがフルスロットルで走るのは初めてではないかと思われるほどの経験で参加したらしい。ノーマル・サスペンションで大きくロールする車なのに思いっきりコーナーへ突っ込んで派手にゴロンゴロンと2転3転するスタントカーまがいのショーが次々と見られた。「第1回日本グランプリ」をきっかけにドライバーの腕も、車のチューンアップ・テクニックも格段に向上したから、そのあとは、あんなスリルのあるシーンは滅多に見られなくなったが......。

 「第2回日本グランプリ」は昨年と同じく鈴鹿サーキットで5月に開催された。


(写真02-1) 第2回日本GPで発売されたカーバッジ
(02-1) 第2回 日本GPで発売されたカーバッジ.jpg

 
 
 特筆すべきは「JAFトロフィーレース」と銘打ってこの時日本で初めてシングル・シーターのフォミュラー・カー・レース(FJ)が行われ事だ。正式にはフォミュラー・ジュニア(FJ)のカテゴリーは1964年から「F3」と変わっていたが参加車の殆どが1963年以前に作られた車である事から昨年並みの「FJ」クラス・レースとなったと推測される。この時参加した14台の中には日野自動車の協力を受けて塩沢商工が造り上げた国産初のFJカー「デル・コンテッサ」3台も含まれている。
(写真02-2a)1964 ロータス27/ブラバム/ロータス20/ロータス22
(02-02a) 1964 Lotus27/Brabham/Lotus20/Lotus22.jpg


(写真02-2b) ⑮1964 ロータス27(ピーター・ウオー)
(02-2b) ⑮Lotus27.jpg


(写真02-2c) 1964 デル・コンテッサ(日野コンテッサベースの我が国初のフォミュラーカー)
(02-2c) 1964 DelCountessa.jpg


 「第2回日本グランプリ」には既に伝説となった話が残っている。その一つは、プラクティス中にガードレールに激突、プラスチックボディを大きく破損し、誰もが出走は無理だと諦めていた「ポルシェ904」を2日間不眠不休の応急処置で出走可能にした上優勝させてしまった名古屋の藤井正行さん。そのレーシングカー「ポルシェ904」に、見た目ツーリング・カーの「プリンス・スカイラインGT」で敢然と挑み、7周から8周にかけて一時ポルシェをリードした生沢徹。僕はこの瞬間をしっかりカメラに収めている。このあと「スカG」は若者が憧れる伝説の車となった。
(写真02-03a,b)
(02-03a)①1964 Porsche 904 Carrera GTS(式場壮吉)/(41) 1964 Prince Skyline GT(生沢徹).jpg

(02-3b) 1964 Prince Skyline GT/1964 Porsche 904 Carrera GTS.jpg


(写真02-4)レースのカテゴリーの大部分はGT/ツーリング・カーで外見は街中を普通に走っているスポーツカーや乗用車だが中身はレース仕様にチューンアップされており、もはやコーナーで転覆するような車はいなかった。
(02-04)⑮~⑲1964 Mitsubishi Colt 1000/Hino Contessa.jpg


 1965年はJAF主催のグランプリは次期尚早ということで開催されず「第3回 日本グランプリ」は1年置いて1966年5月、新装なった「富士スピードウエイ」のお披露目を兼ねて開催された。僕は長野から東京に戻っており、新宿から小田急「新松田」経由、御殿場線「駿河小山」からバスで富士スピードウエイに向かった。

(写真03-1a)「松田駅」にて小田急から国鉄御殿場線に乗り換え
(03-1a)(159-32) 御殿場線駿河小山駅.jpg

(写真03-1b)当時ローカル線では蒸気機関車がまだ現役で働いていた。(国鉄C11型)
(03-1b)(159-31) C11-2(御殿場線駿河小山駅).jpg


 当日は広大な駐車場を隈なく歩き回り、心置きなく珍しい車をカメラに収めた。

(写真03-2a) 駐車場はまだ車が少ない。(1964 Porsche 911 0series)
(03-2a) )富士スピードウエイ(第3回 日本GP).jpg


(写真03-2b)スタンドに近い所から駐車場はどんどん埋って来る。(1958 Chevrolet Corvette)
(03-2b) 1958 Chevrolet Corvette Hardtop.jpg


(写真03-2c)車を降りて会場へ向かう人の群れ。(1955-61 Borgward Isabella TS)
(03-2c) 1955-61 Borgward Isabella TS 2dr Limousine.jpg


(写真03-2d)売店横で見つけた 1951 MG TD
(03-2d) 1951 MG TD Roadster.jpg

(写真03-2e)とうとう駐車場の外れまで来てしまった。(1959-61 Porsche 356B)
(03-2e) 1959-61 Porsche 356B Coupe.jpg


 今回からは高速コースという事もあって、純粋のツーリングカー・レースは無くなり、「スペシャル・ツーリングカー(グループ5)」「グランド・ツーリングカー」「プロトタイプ・スポーツカー」の3レースとなり、1周6キロのコースをそれぞれ20周、20周、60周を走ることになった。特に「プロトタイプ」は360キロと距離も長く高速性能と共に、耐久性も試されることになった。
新設されたコースには第1コーナーから第2コーナーにかけて最大30度のバンクを持つ、通称「須走り落とし」と呼ばれるコーナーが作られた。


(写真03-3a) この「須走り落とし」はスペシャル・ツーリングカー・レースの決勝で、突風に煽られた2台が大きく外に膨らみガードレールに接触、内1台はそのまま外に飛び出し約100メートル先に激突して死亡する大事故を起こした。
(03-3a) 富士スピードウエイ(通称・須走り落し).jpg


(写真03-3b)グランドスタンド前を通過するグル-プ5優勝車 プリンス・スカイラインGT。ファクトリー・チューンの車でも見た目市販車と変わりなく、ナンバー付きだ。
(03-3b) 1966 Prince Skyline GTB(グル-プ5ファクトリーチューン).jpg

(写真03-3c) 日本グランプリ・レースの2リッタークラスはリベンジに燃えるプリンスが自信作「R380」4台で挑戦してきた。
(03-3c) 1966 Prince R380A-1.jpg


(写真03-3d)これに対してポルシェは、新型「カレラ6」1台で迎え撃つ事になったが、プリンスのチームプレーやピットワークにしてやられ一時トップに立つもタイヤ・バーストでガードレールに激突リタイアした。
(03-3d) 1966  Porsche Carrera 6.jpg


(写真03-3e) 「トヨタ2000GT」は半年前東京モーターショーで市販を前提に参考出品されたばかりの車で、予想では期待されていなかったにも拘わらず、結果3位入賞を果たした。出走目的は高速・耐久テストの一環で、参加費用は「実験費」だったとか。
(03-3e) 1966 Toyota 2000GT.jpg

 
 結局総合順位は①②④プリンスR380、③トヨタ2000GT、⑤⑥ジャガーXKEとなり、以下ダイハツP3、アバルト・シムカ、ロータス・エリートと続いた。予選トップだったフェアレディS、優勝候補のカレラ6、デイトナ・コブラはリタイアした。


(写真03-4) 帰路、駐車場を出ればこの渋滞。(1955-57 メルセデス・ベンツ300c)
(03-4) 1955-57 Mercedes Benz 300c 4dr Limousine(W186 Ⅳ).jpg


 次回は(続)富士スピードウエイを予定しています。

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執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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