今年3月、6代目メルセデス・ベンツSLクラスが発表された。1952年に300SLレーシング・スポーツカーが登場してから、今年はちょうど60年目にあたる。そこで、今回は1952年の300SLと1954年に登場した初代300SLの資料を書庫から引き出してみた。
ドイツは第2次世界大戦に負けて米・英・仏・露に分割占領されていたが、日本より3年早い1949年5月にドイツ連邦共和国(旧西独)およびドイツ民主共和国(旧東独)に二分されたが独立を果たした。ダイムラー・ベンツ社は敗戦の翌年、1946年から生産を開始していたが、戦後の復興と、戦前の栄光を取り戻すための起爆剤として、戦前の「タイプ770 グロッサー・メルセデス」のような超高級車を造るか、レース活動への復帰かを検討した結果、後者を選び300SLが登場したのである。
◆ 1952年300SLレーシング・スポーツカー(W194シリーズ)
レース活動への復帰は決定したが、当時のダイムラー・ベンツ社の財布は軽く、量産車の部品を活用しての開発が義務付けられた。そこで目を付けられたのが1951年に発売された「タイプ300」で、中でもショートホイールベースのスポーティー版である「タイプ300S」であった。このモデル自体がメルセデスの豊富なレース活動をとおして蓄積されたノウハウがフィードバックされており、スポーツカーに流用可能であった。「タイプ300」の115ps、2996cc直列6気筒SOHCエンジンはチューニングして171ps/5200rpm、26.0kg-m/4200rpmに強化し、高さを抑えるため左に50度傾けて積み、4速マニュアル・トランスミッション、前後のサスペンションも若干のチューニングを施して流用している。ただし、シャシーは鋼管スペースフレーム、ボディーはアルミで新設計された。
300SLの300はエンジン排気量、SLは独語のSuper Leicht、英語でSuper Light、すなわち超軽量を意味する。車両重量は868kgで最高速度は258km/hであった。
生産台数は11台で、うち1台はホイールベースを2400mmから2202mmにつめ、230psのスーパーチャージド・エンジンを積み、最後の11号車は1953年シーズンのために214psの直接燃料噴射エンジンを積み、トランスミッションを後部に積むトランスアクスル方式が採用されていた。ホイールベースは2301mmでフロント部分のデザインは市販型の300SLに近いものに改められていた。しかし、300SLの市販化が決定され、そちらに開発資源を集中するために1953年シーズンのレース活動は中止されてしまった。
1989年にダイムラー・ベンツ社が発行した資料によると、その時点で1号車と10号車はスクラップされ、3、4および9号車は所在不明、6および7号車は米国にあり、2、5、8および11号車がダイムラー・ベンツ・ミュージアム(現・メルセデス・ベンツ・ミュージアム)に所蔵されていると記されている。
左は6代目にあたる最新型2012年メルセデス・ベンツSLクラス(R231シリーズ)で、右は60年先輩の1952年300SL(W194シリーズ)。年を感じさせない魅力がある。
6代目SLクラスのポートフォリオ1枚目に差し挟まれていた1952年300SL。初期のモデルはこの写真のように「ガルウイング(Gullwing:カモメの翼)・ドア」は腰から上の部分しか開かなかった。乗り降りが難しいため、ボディサイドまで開くように変更され、やがて、ドライバーの要望を採り入れて一部はオープンボディーに改造されていった。
1954年に発売されたメルセデス・ベンツ300SL(W198Ⅰシリーズ)最初のカタログの1頁に登場した300SLレーシング・スポーツカー(W194)。1952年にメキシコで開催された、第3回「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ(Carrera Panamericana "Mexico")」ロードレースで優勝したカール・クリング(Karl Kling)/ハンス・クレンク(Hans Klenk)のくるま。2位にはヘルマン・ラング(Hermann Lang)/エルヴィン・グルップ(Erwin Grupp)の300SLクーペがはいった。もう1台ジョン・フィッチ(John Fitch)/ユージン・ガイガー(Eugene Geiger)のオープンボディー300SLは最終ステージで平均214km/hという驚異的な速さでゴールしたが、所定外の場所でのホイールアライメント調整がルール違反とされ失格となってしまい、1-2-3フィニッシュは果たせなかった。
これはダイムラー・ベンツ社が発行した絵葉書で、1952年の「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」で優勝したクリングのクルマが第1ステージでノスリ(タカ科の鳥:Buzzard)をヒットした瞬間。道路で遊んでいたか、クルマにはねられた獲物をついばんでいた鳥が200km/h以上のスピードで近づくクルマから逃げる判断を誤り、このような事故が頻発したという。このときコ・ドライバーのクレンクは額を切り、一瞬気を失っている。
このレースはパン・アメリカン・ハイウエイの開通を記念して、1950年にはじまった。米国国境のエルパソ近くから南下して、グァテマラ国境までの約3400kmを5日間、8ステージを走破する過酷なもので、事故が多発したため1954年の第5回を最後に中止された。ストック・クラスには多くのアメ車が参加したので、私を含めアメ車ファンにはたまらない存在だったのだが。
300SL(W194シリーズ)ボディー・バリエーションの一部。メルセデス・ベンツ・オールドタイマー・センターを訪ねたとき入手したモデルで、左の21番クーペは1952年ル・マン24時間レースで優勝したヘルマン・ラング/フリッツ・リース(Fritz Riess)のクルマ。オープンボディーの21番は1952年のニュルブルクリンク・グランド・ジュビリー・レースで優勝したヘルマン・ラングのクルマ。6番はカレラ・パナメリカーナで惜しくも失格してしまったジョン・フィッチ/ユージン・ガイガーのクルマ。
1952年のニュルブルクリンク・グランド・ジュビリー・レースには4台のオープンボディー300SLが出場している。先頭の24番はカール・クリングのスーパーチャージド・エンジンを積むショートホイールベース・モデルだが、このあと21番のヘルマン・ラングに抜かれ2位で終わっている。
これもオールドタイマー・センターで手に入れた300SLRのモデル。300SLR(Rは独語Renn:レースを意味する)は300SLとは別物で、単座のグランプリカーW196の2シーター・レーシング・スポーツカー版と言える。ただし、エンジンはW196の2496ccに対し、300SLRは2982cc直列8気筒DOHC直接燃料噴射エンジンを積んでいた。19番は1955年ル・マンで大惨事のため中断するまでトップを走っていたファン・マニュエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangio)/スターリング・モス(Stirling Moss)のクルマ。最高速度は288km/hに達した。後部のエアブレーキに注目。右は9台造られた300SLRの内、シャシーナンバー7と8に架装されたクーペ・バージョンで、1台は開発責任者であったルドルフ・ウーレンハウト(Rudolf Uhlenhaut)のパーソナルカーとして使用された。シャシーナンバー9は欠番で、ナンバー10には可変長インレットマニフォールド装着エンジン、フロントブレーキをインボードからアウトボードにするなどの変更が加えられていた。
◆ 1954~1957年300SL(ガルウイング・クーペ)(W198Ⅰシリーズ)
量産型メルセデス・ベンツ300SL(W198Ⅰ)は1954年2月6日、ニューヨークで開催されたインターナショナル・モーター・スポーツ・ショーで発表された。生産のスタートは同年夏からであった。価格は2万9000マルクで、同時に発表された190SL(W121シリーズ)は1万6500マルクであった。ちなみにメルセデス200(W180)6気筒セダンは1万2500マルクほどであった。米国では最初6820ドルであったが、最終的には8902ドルまで上昇している。
300SLの市販化には1952年1月から米国市場におけるメルセデス・ベンツのインポーターとなったマキシミリアン E. ホフマン(Maximilian E. Hoffman)のマーケティングに基づくダイムラー・ベンツ社への働きかけが大きく影響を与えたと言われる。
スペックはM198型2996cc直列6気筒SOHC直接燃料噴射215ps/5800rpmエンジン+4速MTを積み、サイズはホイールベース2400mm、全長4520mm、全幅1790mm、全高1300mm、トレッドは前1385mm、後1435mm、車両重量925kg、最高速度は260km/hであった。
300SLガルウイング・クーペの生産台数は1400台で、内29台(1955年に26台、1956年に3台)はアルミボディーを、1台はグラスファイバーボディーが架装された。標準ボディーはスチール製で、エンジンフード、トランクリッドおよびドアのみアルミが使われていた。
上の4枚は初期に発行された300SLのカタログ。ギアシフトレバーはすでにリモートリンケージで直立したものとなっているが、最初の50台はダイレクトシフトのため長いクランクしたレバーが装着されていた。後部に130ℓという巨大な燃料タンクを積み、その上に6.50-15のスペアタイヤを載せているので、トランクスペースは無く、シート後部のスペースにぴったり収まるトランクがオプション設定されていた。当時ディスクブレーキは普及しておらず、アルミの冷却フィン付きでライニング幅90mmという巨大なドラムブレーキが採用されている。
上の3枚は1955年に発行された300SLガルウイング・クーペのカタログで、5月に開催されたミッレ・ミリアでGTクラス優勝した300SLがイラストで紹介されている。ほかにも多くのレースで戦績を残している。レイアウト図では鋼管スペースフレームと機能部品の配置が理解できよう。
これは雑誌「平凡」の1963年3月号の第1付録「'63 ぼくとわたしのニュー・カー」に載った、石原裕次郎の300SLガルウイング・クーペ。オプションのセンターロックホイールを付け、ヘッドランプは1957年に登場した300SLロードスターのものに付け替えられている。当時もう1台力道山が所有する300SLロードスターが存在した。
◆ 1957~1963年300SL(ロードスター/クーペ)(W198Ⅱシリーズ)
1957年3月のジュネーブ・モーターショーで300SLガルウイング・クーペの後継として、300SLロードスター(W198Ⅱシリーズ)が発表された。ロードスターへの変更も、米国のホフマンのアドバイスによって実施されたと言われる。
スペックはM198型2996cc直列6気筒SOHC直接燃料噴射、圧縮比8.55:1で215ps/5800rpm(1958年3月発行の独語版カタログには圧縮比9.5:1で225ps/5900rpmが存在する)エンジン+4速MTを積み、サイズはホイールベース2400mm、全長4570mm、全幅1790mm、全高1300mm(幌を上げた状態)、トレッドは前1398mm、後1448mm、車両重量970kg、最高速度は250km/hであった。
大きな変更は鋼管スペースフレームのサイド部分の高さを低くして乗降性を改善し、後輪にシングルジョイント・ローピボット・スイングアクスルと、急激なキャンバー変化を防ぐため、はじめてコンペンセイティング・スプリングを採用した。これによりハンドリング性能が大幅に改善されたという。
価格は3万2500マルクで、米国では1万970ドルであったが、最終的には1万1573ドルに達した。
じつは300SLロードスターが発売されて間もなく、通産省性能試験車として日本に1台輸入され、国産車メーカーに順番に貸し出されたので、私も乗る機会を得た。いちばん印象に残っているのは、発進加速したとき生まれて初めて加速度Gを実感できたことだろうか。当時の国産車ではアクセルを思いっきり踏み込んでも、頭が後ろに引かれることは無かった。確かこのクルマは自動車技術会が中心となって手配・調整を行なったと記憶する。
上の6枚は1958年3月に発行された300SLロードスターのカタログ。2枚目の黄色のクルマのようにバンパー無しでも販売された。スペースフレームのサイド部分を改良したとは言っても、相変わらずサイドシルは幅広で高く、乗り降りは簡単ではない。燃料タンクは100ℓに減量されて薄くなり、スペアタイヤを抱え込むような形に変更されたので、トランクルームがわずかだが確保された。インストゥルメントパネルは大幅に変更されている。このカタログのエンジン出力は225psと記載されている。
上の3枚は1958年に追加設定された脱着可能なクーペ・ルーフを付けたモデル。この絵のクーペではソフトトップは付いていない。ルーフの価格は1500マルクで、ロードスター所有者が追加購入できるようレトロフィットの設定もされていた。
このカタログは海外、特にドイツ駐留の米軍兵士を対象としたカタログで、特別のディスカウント・プライスと支払い条件も相談に応じるとしている。ドイツで購入して米国へ帰国時に持ち帰るとお得ですよ。ということ。価格はロードスター7405ドル、クーペ7575ドル、クーペ+コンバーティブル・トップ7746ドル。米国では1万ドルを超えていたから、確かに安い。これは1959年3月に発行されたカタログだが、同年11月に発行されたカタログでは400ドル前後値上がりしている。敗戦から14年、独立から10年後のドイツの状況がしのばれる興味深い史料だ。後方のジェット戦闘機はノースアメリカンF-86Dセイバー(セイバードッグ)。
上の2枚は1961年3月、ドラムブレーキが4輪ともダンロップのディスクブレーキに換装されたときのカタログ。さらに1962年3月にはアルミブロックのエンジンに換装されている。しかし、1963年2月8日、1858台目の300SLロードスターがジンデルフィンゲン工場をラインオフして生産を終了した。ロードスターの70%は米国に輸出され、ガルウイング・クーペは実に80%が米国に渡っている。
1957年3月から4月にかけて2台だけ生産された300SLS。300SLロードスターの販売促進活動の一環としてSCCA(Sports Car Club of America)チャンピオンシップに挑戦を試みたが、量産車として認められず、クラスDのスポーツ・レーシングカーとして参戦するために急きょ改造されたモデル。エンジンはアルミブロックの235psを積み、前輪にはディスクブレーキを装着し、そのほか多くの性能の強化と軽量化が施されている。ホイールが標準のボルト・オン式なのは、SCCAのレースでは途中のタイヤ交換が不要のためであった。マセラッティ300S、フェラーリ・モンツァ、アストン・マーティンDB3Sなどの強豪を相手に、ポール・オシア(Paul O'Shea)のドライブで1957年のノース・アメリカン・スポーツカー・チャンピオンシップ(カテゴリーD)を獲得した。