三樹書房
トップページヘ
catalog
第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ
2012.2.27

 70年前のカタログのはなしである。
 19世紀の終わりにはじまった米国における乗用車の生産は、20世紀のはじめ、1908年10月に発表されたT型フォードの登場で、アメリカ人の足を、馬からクルマに変えたと言われる。それ以来営々とクルマ造りに励んできたが、ある時期民需用乗用車の生産がケンカのために禁止されたことがある。太平洋戦争である。
 米国は1941年3月、ルーズベルト大統領が武器貸与法に署名して、それまでの中立的立場を放棄、ヨーロッパ連合軍の対ドイツ戦に参戦。 5月には国家非常事態・臨戦態勢確立を宣言した。 そして、同年12月7日(日本時間12月8日)、日本軍による真珠湾奇襲攻撃で対日戦にも突入した。
 この戦争によって最初にアメリカ車が受けたとばっちりは、1942年1月1日以降の生産車は、すべて「ブラックアウト」処理が義務づけられ、クローム部品は塗装されて出荷された。そして、1942年2月にはすべての民需用車両の生産は禁止され、1945年6月までの3年4ヵ月続いた。しかし1945年7月には民需用乗用車の生産を再開したメーカーがあり、太平洋戦争の対日戦勝記念日(日本にとっては終戦、いや敗戦記念日)であるV-J Day(Victory in Japan Day)は1945年8月14日(日本時間では15日)、或いは当時の重光葵外相が横浜沖に停泊した戦艦ミズーリ艦上で、降伏文書に署名したのが9月1日(日本時間では2日)であるから、かなり早い段階で勝利を確信しており、戦後へと舵を切っていたことになる。これを承知でだらだらと無益な戦争を続け、早く降参していれば死ななくてもよかった数十万の国民を犬死させ、戦犯として裁かれた指導者たちの罪は重い。近頃はやりの「想定外だった!」は通用しないと思う。
 話が逸れたが、したがって1943~45年型民需用アメリカ車は存在しない。 1942年型の生産量も極めて少なく、1941年型の約427万台に対し、わずか115万台であった。ちなみに1942年の日本の乗用車生産台数は、普通車205台、小型四輪車は乗用車とトラック合わせて1697台に過ぎなかった。
 戦時中、米国では自動車メーカー各社から、どんな兵器を造って、いかに国のために貢献しているかを訴求する広告が数多く掲載されたが、1942年型アメリカ車のカタログにも戦時色の出ているものがあり、そのうちのいくつかを紹介する。

05-04-01 1942 Mercury.jpg

05-04-02 1942 Mercury.jpg

上の2枚は1942年型マーキュリーのカタログ。表紙を含め描かれた絵はすべて軍の飛行場、しかも夜景。 これほど時代背景を鮮烈に表わしたカタログは無いだろう。 だが、どの絵を見ても、恋人?奥さん?らしい女性が、機体のそばまで送迎に来ている様子が描かれている。日本ではありえない光景である。このカタログは1941年8月23日に印刷されたので、絵の中ではクルマはホワイトサイドウォールタイヤを履いているが、これはオプションであり、しかも既に臨戦態勢のため生産を中止しており、在庫限りと注記が入っているのも当時の特徴。表紙に描かれた商人(あきんど)の神様、マーキュリーの表情も暗い。

05-04-03 1942 Cady.jpg

05-04-04 1942 Cady.jpg

上の2枚は1942年型キャディラックのカタログ。1942年は素晴らしいクルマを造って40年目、軍需生産3年目とあるように、1939年からアリソンV-1710航空機用エンジンのクランクシャフト、カムシャフト、コンロッド、ピストンピン、リダクションギアなどを生産していた。対日戦突入後は戦車を受注し、1942年2月にキャディラックの生産を打ち切ると、55日後の4月にはキャディラックV8+ハイドラマチック・オートマチックトランスミッションを2セット搭載したM-5戦車をラインオフしている。その後M-24、M-8、M-19など1945年8月までに合計1万2230両の軍用車両を生産した。

05-04-05 1942 Cady.jpg

日本占領連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が公式車として使用していた1942年型キャディラック フリートウッド 75。V型8気筒5670cc、150馬力エンジンを積み、全長5.8mの堂々たるクルマであった。

05-04-06 1942 Buick.jpg

05-04-07 1942 Buick.jpg

上の2枚は1942年型ビュイックのカタログ。「国家ニーズの枠外で」のキャッチコピーで、安全保障のために国家のニーズに応えなければならないが、一般社会もクルマを必要としており、なんとか民需用のクルマを造りたいと努力している。そして、やがて生産禁止されることを既に知っているのであろう、1942年型ビュイックは、従来どおり毎年ニューモデルが発売される時が来るまで、オーナーに満足して使っていただけるクルマだと訴求している。そして最後に、クルマは国家のニーズの枠外で造られており、軍需製品の生産を阻害するものではないと結んでいる。当時、日本でこのような表現をしたら、非国民だ!と糾弾されたであろう。
ビュイックでは2507台のM18ヘルキャット戦車、月産1000基のペースでプラット&ホイットニー航空機用エンジンを含め30品目以上の兵器生産が行なわれた。

05-04-08 1942 Olds.jpg

05-04-09 1942 Olds.jpg

上の2枚は1942年型オールズモビルのカタログ。「アメリカの緊迫したニーズに応えるために」のキャッチコピーで、兵器や軍需品の生産を最優先とするが、アメリカの活動を維持するためにクルマの生産も続ける。しかし、材料も潤沢でなく、軍需製品優先なので台数は限定されるし、仕様の変更、モデルの廃止もありうると記されている。オールズモビルでは1941年4月から「ロングトム(Long Tom)」の愛称を持つ155mm砲の砲弾や戦闘機に搭載する機関砲の生産をはじめ200品目を超える軍需部品を生産している。
「B-44」の呼称は、社名がOlds Motor WorksからOldsmobile Division of General Motorsに変更されたのを機に、1897年の創業から44年目にあたるので付けられた。「B」は44年間に造られたどのオールズモビルよりもBetter Looking(見栄えが良い)、Better Lasting(耐久性が良い)、Better Built(造りが良い)の頭のBを採ったもの。

05-04-10 1942 Pontiac.jpg

05-04-11 1942 Pontiac.jpg

上の2枚は1942年型ポンティアックのカタログ。「我々の役割を果たすことに誇りを持つ」のコピーと、ポンティアック モーター ディビジョンからの国防ステートメントを掲げている。ポンティアックも銃砲・砲弾のほか航空魚雷やGMCバスなど200品目を超える軍需部品を生産した。少量のクルマの生産は行なうが、国防の仕事を何よりも優先するとしている。同じGMグループでも表現の仕方にそれぞれ個性があり面白い。

05-04-12 1942 Plymouth.jpg

05-04-13 1942 Plymouth.jpg

05-04-14 1942 Plymouth.jpg

上の3枚は1942年型プリムスのカタログ。イラストには戦時色が表れているが、軍需工場への転換については簡単な説明があるだけである。

05-04-15 1942 Stud.jpg

05-04-16 1942 Stud.jpg

上の2枚は1942型スチュードベーカーのカタログ。「アメリカの防衛のために、スチュードベーカーは無制限の航空機用エンジン、軍用トラック、そのほかの軍需品を造り。アメリカの移動手段のためには限定された数の素晴らしいスチュードベーカー車を造ります」とある。スチュードベーカーは6万基以上のライト航空機用エンジン、20万台近い軍用トラック、1万5000台ほどの全長3.2m、全幅1.7mほどのキャタピラー付きウィーズル(Weasel:いたち)小型水陸両用車などを生産した。

05-04-17 1942 Stud.jpg

1942年型スチュードベーカーのカタログの1頁。クルマは最高級のプレジデント エイトで直列8気筒4107cc、117馬力エンジンを積む。後方の爆撃機はボーイングB-17フライングフォートレスで、エンジンはスチュードベーカーで生産していたライトR-1820-97を積む。

 庶民の生活も戦時体制となり、燃費とタイヤの摩耗をおさえるため、クルマの速度制限は35mph(56km/h)に規制された。開戦当初、日本軍が破竹の勢いでアジアに侵攻したため、原料の輸入がストップすることを懸念しての措置でもあろう。1942年1月から北東部の州でガソリンも配給制となり、12月には全米が対象となった。一般庶民は週4ガロン(15リットル)、1943年に3ガロン(11リットル)、1944年には2ガロン(8リットル)迄減らされた。この配給制度によりガソリンの使用量が40%下がったという。 どこの国でもある事だが、コネを使ってごまかす者、配給クーポンを盗む者が結構居たようだ。ガソリンやタイヤだけでなく、肉、バター、コーヒー、砂糖なども配給制となっている。
 戦時中に自動車メーカー、兵器メーカーなどが自社製品を入れた戦場シーンのカラーポスターを頻繁に発行したのは、厳しい生活環境のなかでの戦意高揚と労働者のモラル、士気高揚のキャンペーンでもあった。税金を使って何をやっているかを国民に報告する義務・責任を果たす意味も含まれていよう。国民の血税を自分の金のように使うどこかの国とは雲泥の差がある。男性は兵役にとられ、やむなく女性の時間給現場作業員を採用しており、キャディラックの記録によると、1944年2月の時点で女性が41%を占めたとある。

05-04-18 1946 Packard.jpg

05-04-19 1946 Packard.jpg

上の2枚は戦後初の1946年型パッカードのカタログ。パッカードの1942年型カタログには戦時色は見られないが、1946年型では実績報告のかたちでしっかり記載されている。さらにクリストファー社長のメッセージとして、材料不足により十分な台数を供給できないが、もうしばらく待って欲しいと、一頁を割いて訴えている。1945年5月には民需用乗用車への生産シフトを開始したが、生産設備を屋外に保管していたためオーバーホールが必要で、完全復帰したのは1946年4月であった。
 パッカードは1915年に生産開始したV-12気筒エンジンのノウハウを活かして開発した「リバティ」航空・舶用エンジンの実績が評価され、戦時戦略ではエンジン生産を担当した。一つはロールス・ロイス社製マーリンV-1650、液冷27ℓ V12気筒1490馬力航空機用エンジンのライセンス生産。このエンジンは英国で熟練工によって手造りされており、戦時下で多くの女性を含む未熟な作業者が大量生産するには無理があった。そこで、パッカード社で設計変更して、組立・サービス性の向上が図られた。スーパーマリン・スピットファイア、カーチスP-40ウォーフォークなどに搭載されたが、なかでも、ノースアメリカンP-51マスタングには当初アリソンV-1710が採用されたが、途中でパッカード製V-1650に換装され、第2次世界大戦の最優秀戦闘機と評されるほどの完成度を誇った。パッカードでの生産台数は5万5523基。
 もう一つの主力製品は、ルーズべルト大統領の要請で、パッカードが新たに開発した4M-2500 水冷41ℓ V12気筒1200~1500馬力舶用エンジン。これは海軍のPTボート(Patrol Torpedo Boat:哨戒水雷艇)用で、通常1艘に3基搭載された。戦法は夜陰にまぎれてエンジン1基を作動させて静かに敵艦に迫り、水雷を発射したあとすかさず反転して3基のエンジンをフル稼動させて離脱するというもの。大戦中、マッカーサー元帥がコレヒドールから一時撤退するときに使用したのと、ケネディ大統領が乗船していたPT109号艇が有名。エンジン生産台数は1万2103基(1957年発行のパッカード社の広報資料には1万3000基とある)。

05-04-20 1946 Packard.jpg

最後に1946年型パッカードの上級グレードであるスーパークリッパーのカタログを紹介しよう。兵役から帰った彼とやっと結ばれた幸せそうなカップル。戦後、米国のあちこちで見られたであろうシーンを切り取った秀作。新家庭の誕生、平和を満喫した人びとは空前のベビーブームを起こした。しかし、米国といえども戦争によるダメージは少なからずあり、乗用車の生産台数は1946年型約223万台、1947年型約336万台、1948年型約342万台、そして1949年型でようやく戦前の台数を超える約516万台に回復した。


このページのトップヘ
BACK NUMBER

第111回 ミカサ – わが国初の前輪駆動AT車

第110回 BMWアート・カー

第109回 AMC グレムリン(Gremlin)

第108回 1963年型ビュイック リビエラ(Riviera)

第107回 キャディラック エルドラドブローアム

第106回 日産自動車創立25周年記念冊子

第105回 Automobile Council 2021

第104回 ランチア デルタS4

第103回 アバルト(ABARTH)

第102回 日野コンテッサ

第101回 鉄道が趣味だった時代

第100回 コレクションの紹介

第99回 Supercar ランボルギーニ

第98回 チェッカー

第97回 Automobile Council 2020

第96回 スズキジムニー誕生50周年(第3世代)

第95回 スズキジムニー誕生50周年(第2世代)

第94回 スズキジムニー誕生50周年(第1世代)

第93回 アメリカでコレクターズアイテムとなるR32 GT-R?

第92回 戦後のアメリカンコンパクトカー(3)

第91回 戦後のアメリカンコンパクトカー(2)

第90回 東京オートサロン 2020

第89回 戦後のアメリカンコンパクトカー(1)

第88回 シトロエンのロータリーエンジン車

第87回 シトロエン トラクシオンアヴァン

第86回 シトロエン創立100周年記念イベント

第85回 「モーターファン」誌1952年1月号に載った広告

第84回 英国人のハートをつかんだフィガロ

第83回 サクラ・オートヒストリーフォーラム2019

第82回 ジャパン・クラシック・オートモービル 2019

第81回 Automobile Council 2019

第80回 MINIの60周年記念

第79回 日産自動車初の大型トラック&バス(80型/90型)

第78回 東京オートサロン 2019

第77回 新町暮らシックCarまちなか博物館

第76回 2018トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

第75回 三菱500

第74回 空飛ぶクルマ

第73回 Automobile Council 2018

第72回 戦後から1950年代初頭のジャガー

第71回 フォルクスワーゲンのアメリカ進出

第70回 ACC・JAPANの東京交歓会

第69回 1949年型アメリカ車 – フォード編

第68回 1949年型アメリカ車 –クライスラー編

第67回 サーブ 92

第66回 東京オートサロン2018

第65回 ボルボ・カー・ジャパン、1959年式PV544をトヨタ博物館へ寄贈

第64回 2017トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

番外編 2017トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

第63回 1948年型アメリカ車 – インデペンデント編

第62回 1948年型アメリカ車 – ビッグ3編

第61回 Automobile Council 2017

第60回 1947年型アメリカ車 – インデペンデント編

第59回 1947年型アメリカ車 - ビッグ3編

第58回 戦時下に発行されたアメリカ車メーカーのポスター

第57回 AC & Shelby AC Cobra - 2

第56回 AC & Shelby AC Cobra - 1

第55回 ナッシュヒーレー&ハドソンイタリア

第54回 東京オートサロン2017

第53回 リンカーン コンチネンタル

第52回 2016トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑

第51回 クライスラー300 レターシリーズ – その2

第50回 Automobile Council 2016 – そのⅡ

第49回 Automobile Council 2016

第48回 クライスラー300 レターシリーズ – Ⅰ

第47回 フォードランチェロ

第46回 1954年カイザー・ダーリン161

第45回 1950年代ポンティアックのドリームカー

第44回 1950年代オールズモビルのドリームカー

第43回 1950年代ビュイックのドリームカー

第42回 1950年代キャディラックのドリームカー

第41回 クラシックカー・フェスティバル

第40回 アメリカの初期SUV/MPV

第39回 メトロポリタン

第38回 フォード サンダーバード

第37回 シボレーコルベット(第1世代 – 2/2)

第36回 シボレーコルベット(第1世代 – 1/2)

第35回 1950年代のアメリカンドリームカー(4)

第34回 1950年代のアメリカンドリームカー(3)

第33回 1950年代のアメリカンドリームカー(2)

第32回 1950年代のアメリカンドリームカー(1)

第31回 1940年代のアメリカンドリームカー

第30回 戦後のアメリカ車 - 11 :1940年代の新型車(フォード)

第29回 戦後のアメリカ車 - 10 :1940年代の新型車(GM)

第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)

第27回 戦後のアメリカ車 - 8 :1940年代の新型車(タッカー)

第26回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ナッシュ)

第25回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ハドソン)

第24回 戦後のアメリカ車 - 6 :1940年代の新型車(クライスラー・タウン&カントリー)

第23回 戦後のアメリカ車 - 5 :1940年代の新型車(クロスレイ)

第22回 戦後のアメリカ車 - 4 :1940年代の新型車(カイザー/フレーザー)

第21回 戦後のアメリカ車 - 3 :1940年代の新型車(スチュードベーカー)

第20回 戦後のアメリカ車 - 2 :1940年代の新型車(ウイリス/ジープ)

第19回 戦後のアメリカ車 - 1 :1946年型の登場(乗用車の生産再開)

第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ

第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー

第16回 アメリカ車:序章(4)1924~1929年

第15回 アメリカ車 :序章(3)1917~1923年

第14回 アメリカ車 :序章(2)フォード モデルT(1908年~1927年)

第13回 アメリカ車 :序章(1) 登場~1919年

第12回 AF+VKの世界:1959~1971年型ポンティアックのカタログ

第11回 コペンの屋根:リトラクタブルハードトップ

第10回 スクリーンで演技するクルマたち

第9回 シトロエンDSのこと

第8回 よみがえった『力道山のロールスロイス』

第7回 メルセデス・ベンツ300SL - SLクラスの60周年を祝して

第6回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その2)

第5回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その1)

第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ

第3回 「ラビット」から「スバル」へ - スバル最初の軽乗用車と小型乗用車

第2回 「キ77」と電気自動車「たま」。そして「日産リーフ」

第1回 自動車カタログ収集ことはじめ

執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
トップページヘ