三樹書房
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kataoka
第3回 4サイクル・ツイン
2012.1.30

 東北とうほく常磐じょうばん奥羽おうう信越しんえつなどの地方をひと夏かけて自動車で走りまわったのは素敵だった。なんの目的もない旅だった。大好きな夏のなかで、気ままに自動車で走り、ディスカバー・ジャパンではないけれど、田舎いなかの景色や人情に触れては、単純に感激していた。空は青く、雲は白く、湖は美しく、山は緑、そして太陽は燃える黄金だった。もう何年も昔のことだが、あのときの空や風を、まだぼくの体は忘れてはいない。上越じょうえつから長野ながのまでの国道18号線。長野から塩尻しおじりの19号線。そして塩尻から大月おおつきあたりまでの20号線。このラインから北を、あの夏、ぼくはまったく自由に、走ったのだ。
 あまりに素晴らしかったので、あくる年の夏、おなじことをぼくはこころみた。なかなか快適だった。車は調子いいし、お天気には恵まれた。こんなふうにしているだけで一生をすごせたらどんなにいいだろうと思いながら、ぼくは信越から常磐にむかおうとしていた。
 ぼくは、昨年の夏とはなにかが微妙にちがっているのに気づきはじめていた。二度目だから、なんとなく慣れてしまい、はじめてのときほどの感激はないのかなと思いつつ、車を走らせた。
 空は、まえの年とおなじように青い。陽が、降りそそぐ。素晴らしい。だが、どこかがなんとなく、へんなのだ。
 走っていて、ときたま、退屈をおぼえた。正面の、そして両わきの窓が、ふと、テレビジョンのスクリーンみたいに感じられた。テレビジョンの画面を見ながら、テレビジョンの中は走っているような感覚が、ふと、おこってくる。
 会津磐梯山ばんだいさんのホテルで休み、昼食をとったぼくは、さて、また走りつづけようと思い、正面入り口わきの駐車場へ出てきた。そして、そこで見た光景を、一生、忘れないだろう。
 道路を、二台のオートバイが走ってきたのだ。メグロ・スタミナK2と、カワサキ650W1だった。ともに三十代前半の、見るからに体験の豊かそうなライダーたちは、よく着こんだ皮つなぎにツーリング・ブーツ。ジェット型のヘルメットに単眼のゴグル、そして手袋。シートのうしろには、野宿に必要な最低限の荷物が、要領よく乗せられていた。
 夏の青空の下の、あの二台のオートバイの排気音。フェンダーの銀色の輝き。皮つなぎに身をかためたライダーたちの全身から発散されてくる自由さ。風の中にむきだしの爽快そうかいさ。
 二台のオートバイは、ホテルの駐車場に入ってきた。とまって、二台がほぼ同時に、エンジンを切った。エンジンが切られ、排気音が消えることによって、排気音の素晴らしさがこのうえなく強調された一瞬だったようにぼくはいまでも思っている。
 腹にこたえる豪快な音だったが、そのような音そのものの魅力もさることながら、その音が広がっていく、風と陽光のいっぱいにつまった夏の空間が、ぼくにおそいかかって、ぼくをとりこにした。
 ライダーたちは、ゆっくりヘルメットをぎ、オートバイを降りた。ゴグルをとって空をあおぎ、笑いあい、語りあう。かなりの長距離をこなしてきたのだろう、ゆっくりと、どことなく重たそうに体を動かしていた。
 これを見て、僕は、忘れていたことを思い出した。十代に少し乗ったまま忘れていたオートバイというものを、思い出したのだ。ふたりのライダーたちの体の動きを見ていて、オートバイで長距離ツーリングしているときの体の感覚のようなものが、ぼくの体の内部で、噴火のようによみがえった。
 そうだ、この世の中にはオートバイというものがあったのだ! と、そのときのぼくは、不覚にも、悟った。なぜ、こんないいものを忘れていたのだろう。いったん思い出してしまうと、もういけない。自動車の旅はまさにテレビジョンになってしまい、このとき以来、自動車に対してあまり燃えることができなくなった。北アメリカ大陸での自動車の旅はいまでも好きだが、それ以外、自動車には燃えない。
 ぼくが十代のころにあこがれていたオートバイは、メグロ・セニアのT1とかT2、キャブトンRV、オービットHなど、4サイクル単気筒ないしはツインのやつで、排気量は250から500くらい、シートはサドル型だ。夏の磐梯で見たメグロやカワサキは雰囲気的にこの系列であり、ぼくのオートバイに対する好みを決定的なものにしてしまっている。
 春さきから秋ふかくにかけての、オートバイによるソロのロング・ツーリング。これは、ほかにちょっとたとえようのない、比較するもののない、素晴らしい世界だとだけ、ここでは書いておこう。


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写真:片岡義男

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執筆者プロフィール

1940年(昭和15年)、東京都生まれ。早稲田大学在学中からエッセイ、コラム、翻訳などを「ミステリマガジン」などの雑誌に発表。評論の分野では、1971年に三一書房より『ぼくはプレスリーが大好き』、1973年に『10セントの意識革命』を刊行。また、植草甚一らと共に草創期の「宝島」編集長も務める。1974年『白い波の荒野へ』で小説家としてデビュー。翌年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。代表作である『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』などが映画化。近年は『日本語の外へ』などの著作で、英語を母語とする者から見た日本文化論や日本語についての考察を行っているほか、写真家としても活躍。著書に『木曜日を左に曲がる』『階段を駆け上がる』(ともに左右社)『白い指先の小説』(毎日新聞社)『青年の完璧な幸福』(スイッチパブリッシング)ほか多数。

関連書籍
『木曜日を左に曲がる』(左右社)
『階段を駆け上がる』(左右社)
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