あまりに素晴らしかったので、あくる年の夏、おなじことをぼくはこころみた。なかなか快適だった。車は調子いいし、お天気には恵まれた。こんなふうにしているだけで一生をすごせたらどんなにいいだろうと思いながら、ぼくは信越から常磐にむかおうとしていた。
ぼくは、昨年の夏とはなにかが微妙にちがっているのに気づきはじめていた。二度目だから、なんとなく慣れてしまい、はじめてのときほどの感激はないのかなと思いつつ、車を走らせた。
空は、まえの年とおなじように青い。陽が、降りそそぐ。素晴らしい。だが、どこかがなんとなく、へんなのだ。
走っていて、ときたま、退屈をおぼえた。正面の、そして両わきの窓が、ふと、テレビジョンのスクリーンみたいに感じられた。テレビジョンの画面を見ながら、テレビジョンの中は走っているような感覚が、ふと、おこってくる。
会津
道路を、二台のオートバイが走ってきたのだ。メグロ・スタミナK2と、カワサキ650W1だった。ともに三十代前半の、見るからに体験の豊かそうなライダーたちは、よく着こんだ皮つなぎにツーリング・ブーツ。ジェット型のヘルメットに単眼のゴグル、そして手袋。シートのうしろには、野宿に必要な最低限の荷物が、要領よく乗せられていた。
夏の青空の下の、あの二台のオートバイの排気音。フェンダーの銀色の輝き。皮つなぎに身をかためたライダーたちの全身から発散されてくる自由さ。風の中にむきだしの
二台のオートバイは、ホテルの駐車場に入ってきた。とまって、二台がほぼ同時に、エンジンを切った。エンジンが切られ、排気音が消えることによって、排気音の素晴らしさがこのうえなく強調された一瞬だったようにぼくはいまでも思っている。
腹にこたえる豪快な音だったが、そのような音そのものの魅力もさることながら、その音が広がっていく、風と陽光のいっぱいにつまった夏の空間が、ぼくにおそいかかって、ぼくをとりこにした。
ライダーたちは、ゆっくりヘルメットを
これを見て、僕は、忘れていたことを思い出した。十代に少し乗ったまま忘れていたオートバイというものを、思い出したのだ。ふたりのライダーたちの体の動きを見ていて、オートバイで長距離ツーリングしているときの体の感覚のようなものが、ぼくの体の内部で、噴火のようによみがえった。
そうだ、この世の中にはオートバイというものがあったのだ! と、そのときのぼくは、不覚にも、悟った。なぜ、こんないいものを忘れていたのだろう。いったん思い出してしまうと、もういけない。自動車の旅はまさにテレビジョンになってしまい、このとき以来、自動車に対してあまり燃えることができなくなった。北アメリカ大陸での自動車の旅はいまでも好きだが、それ以外、自動車には燃えない。
ぼくが十代のころにあこがれていたオートバイは、メグロ・セニアのT1とかT2、キャブトンRV、オービットHなど、4サイクル単気筒ないしはツインのやつで、排気量は250から500くらい、シートはサドル型だ。夏の磐梯で見たメグロやカワサキは雰囲気的にこの系列であり、ぼくのオートバイに対する好みを決定的なものにしてしまっている。
春さきから秋ふかくにかけての、オートバイによるソロのロング・ツーリング。これは、ほかにちょっとたとえようのない、比較するもののない、素晴らしい世界だとだけ、ここでは書いておこう。
写真:片岡義男