富士山をかすめて低空飛行する美しい米軍機?
いえ、1945年8月日本の敗戦とともに、米軍の捕虜になった、長距離飛行の世界新記録を持つ、立川飛行機製「キ77」最後の雄姿です。富士精密工業の社内誌「富士精密ニュース」1960年5月号に、当時、同社の専務取締役であった外山保さんが寄稿された記事のタイトル写真です。
記事の内容を少し紹介しますと、この飛行機は朝日新聞社が紀元2600年(神武天皇の即位から2600年に当たる西暦1940年を指す)の記念事業として、1万5000km無着陸長距離飛行の世界記録を作る計画をし、その設計・製作を立川飛行機に依頼されました。開発にあたって、中島飛行機、東大の航空研究所、朝日新聞社が協力したそうです。しかし、計画が進行するにつれ、戦争が激しくなり、遠距離爆撃機を作るための研究機に変更され、後に軍用連絡機となり「キ77」と呼ばれることになりました。
約2年の開発を経て、1942年11月末に初飛行し、1943年5月完成した「キ77」は全長15.3mに対して全幅29.6mと、グライダーのように極端に長い翼を持ち、翼の中は20に仕切られた燃料タンクで、ガソリン1万2000ℓ(ドラム缶60本相当)を積めました。エンジンは中島飛行機製「ハ105特」1030馬力×2基で、高度1万1000mを飛行するため、胴体内に酸素を放出して地上に近い状態とするために、半気密胴体が採用されました。武装はなく丸腰ですが、特殊な液体酸素ボンベ、当時最新式の無線機、オートパイロットや飛行中に交代で眠れる寝台などを装備していました。
「キ77」は2機製作され、1機は1943年7月、重要任務を帯びて日本を発ち、シンガポールからイタリア領ロードス島に向かう途中消息を絶ってしまいました。残りの1機で最初の目的であった長距離飛行の世界記録に挑戦、直線飛行をする場所がなく、満州の新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)、白城子(現・白城)の三角飛行で実施、1944年7月2日新京飛行場を離陸した「キ77」は飛行時間65時間、飛行距離1万6435kmを飛び、世界新記録を樹立して7月4日無事着陸し、所期の目的を達しました。
しかし、戦争中のことで、この飛行は極秘裏に行なわれ、記録も公表されず、長年苦労した関係者は、空襲警報の鳴り響く中、陸軍の航空本部に集まり祝杯をあげたそうです。
やがて敗戦となり、マッカーサーが進駐してきて間もないある日、米軍の空軍司令部から呼び出しを受け、戦争末期に立川飛行機が手掛けていた「キ77」「キ74」「キ106」を米国に持ち帰るから、整備して追浜飛行場に空輸せよと命令され、甲府飛行場に疎開していた「キ77」を整備、機体の日の丸を消して米軍の星のマークを書かされたときは、何とも惨めな気持だったと述懐しています。
甲府から追浜へ空輸する途中、護衛機のグラマンTBFアベンジャーから外山さんご自身が撮影したのが冒頭の写真です。
立川飛行機で外山さんとともに開発を手掛けていた田中次郎さんから聞いた話ですが、航空母艦で米国へ搬送中に海が荒れ、「キ77」は海に落ち米国に行き着かなかった可能性があります。
陸軍の軍用機を造っていた立川飛行機は、1945年8月の敗戦とともに造るモノを失ってしまいました。その時、将来性のあるモノとして選んだのが自動車です。当時、ガソリンは統制されており、入手困難であったため、選ばれたのが電気自動車(EV)でした。モーターを日立製作所と神鋼電気に、バッテリーを湯浅電池に開発依頼し、1946年11月、立川飛行機の傘下にあった高速機関工業製のオオタ・トラックをベースとした最初の実験車EOT-46B型を2台完成させました。
1946年11月にテスト用として2台製作されたEOT-46B型。
しかし、その直後、工場を米軍に接収され、米軍関連以外の仕事ができなくなってしまいました。このとき、元立川飛行機の試作工場長であった外山保さんを中心とする200名ほどが独立を決意、府中町の遊休工場を借り、1947年4月に生産型トラックEOT-47型を、5月には乗用車E4S-47型を完成、地名にちなんで車名を「たま」としました。そして6月、のちにプリンス自動車工業となる「東京電気自動車」を設立。当時はクルマが極度に不足しており、定価35万円ほどのところ、プレミアムが付き45万円で売れたと言われます。
当時、我が国は資材が極端に不足しており、商工省(現・経済産業省)主催で性能試験をおこない、優秀なクルマのメーカーに優先的に資材を割り当てるという、厳しい方法が採られていました。第1回自動車技術会電気自動車性能試験は1948年3月に大阪・高槻市でおこなわれ、「たま」は乗用車、トラック共他車を大きく引き離し、トップの成績を得ました。E4S-47型は一充電走行距離96.3km、最高速度35.2km/h、平均速度28.3km/hでした。
1947年ころの東京電気自動車の工場内部。E4S-47型、EOT-47型のほかにオオタのトラックも見える。
工場前のE4S-47型とEOT-47型。1948年3月の第1回電気自動車性能試験参加車両であろう。
1947年型たま乗用車E4S-47型のカタログ。サイズはホイールベース2000mm、全長3200mm、全幅1270mm、全高1650mm。車両重量1050kgの内バッテリー・カートリッジが327kgを占めていた。最高速度35km/h、一充電走行距離65kmであった。
1947年型たまトラックEOT-47型のカタログ。ホイールベースは乗用車と同じ2000mm、全長3040mm、全幅1200mm、全高1600mm。車両重量は乗用車と同じ1050kgであった。乗員2名と500kgの荷物が積めた。
1948年9月に小田原で開催された第2回性能試験において、一充電走行距離231.5km、平均速度22.8km/hの新記録を達成した「たま セニア(EMS-48型)」。向かって右端が外山保さん、左端が田中次郎さん。
1948年型たま ジュニアー(E4S-48型)のカタログ。ボディは近代化され、ホイールベースは変わらず2000mmだが、ボディはひとまわり大きくなり、全長3560mm(+360mm)、全幅1400mm(+130mm)、全高1600mm(-50mm)。バッテリー容量を大きくして一充電走行距離を90kmに伸ばした。旧型E4S-47型のバッテリーが使えるモデルも用意されたが、その場合の航続距離は65kmであった。
最初のたま セニアは1948年9月に発売されたが、これは1949年3月に全長が220mm延長され4200mmに、ホイールベースも180mm伸ばされ2400mmとなったEMS-49-II型のカタログ。セニアの前輪は横置きリーフスプリングによる独立懸架を採用。1km走行するのに要する電気代が50銭とあるが、1949年のガソリン価格が1リットル約18円であったから、1リットルで10km走るとして1km当り1円80銭となり、確かにガソリン車に比べ1/3以下であった。
1950年型たま セニア(EMS-49-II型)のカタログ。これまでの木骨鋼鈑張りから、はじめて全鋼鈑製ボディとなった4ドアモデル。一充電走行距離200kmとあるが、これは低速の24km/hで走った場合で、最高速の55km/hで飛ばすと130kmに落ちてしまった。カタログの表紙を飾るクルマのタイヤが泥まみれなのも時代が偲ばれてほほえましい。
1950年型たま ジュニアー(E4S-49-Ⅱ型)のカタログ。1949年12月に小型車ジュニアーにも全鋼鈑製ボディが採用された。
第2回性能試験は1948年9月に小田原で開催され、新型中型車「たま セニア(EMS-48型)」は一充電走行距離231.5km、平均速度22.8km/hの新記録を達成しています。
その後、たま ジュニアー、たま セニアと次々に新型を出していくが、月産能力30台程度では採算ベースに乗らず、経営は行き詰っていきました。そのとき救いの手を差し伸べたのがブリヂストン・タイヤ社長の石橋正二郎さんでした。1949年に東京・三鷹の元正田飛行機の施設を買収し、社名も「たま電気自動車」に変え、生産体制を整えたとき朝鮮戦争が勃発、日本経済は特需に沸きますが、戦略物資である鉛の価格が暴騰、バッテリーも高騰しました。一方、ガソリンは米軍から大量に放出されたため、電気自動車は完全に息の根をとめられてしまいました。合計1,099台のたま電気自動車を生産し、1951年6月生産を断念しました。
その後、中島飛行機が敗戦後に富士産業と社名変更して活動していましたが、1945年11月にはGHQ(連合国軍総司令部)指令により財閥解体の指定を受け、1950年5月に再建整備計画が認可され、12に分割された第二会社が設立されました。そのうちの1社である「富士精密工業」に1.5ℓガソリンエンジンの開発を依頼し、1952年3月、1.5ℓエンジンを搭載した「プリンスセダン(AISH-1型)」「プリンストラック(AFTF-1型)」を発表しました。
「たま電気自動車」は、1951年11月に「たま自動車」に改称、1952年11月には「プリンス自動車工業」に改称。一方、1951年4月に興銀の保有していた「富士精密工業」の株式を石橋正二郎さんが買い取り、会長に就任。1954年4月に「プリンス自動車工業」を合併して「富士精密工業」としました。この時点で「プリンス自動車工業」の社名は一度消滅します。その後、「富士精密工業」の自動車関連売り上げが90%を超えたのを機に、1961年2月「プリンス自動車工業」に改称され、1966年8月日産自動車に吸収合併されました。
その日産自動車から2010年12月、新世代のEV(電気自動車)「リーフ」が発売されました。走行時のCO2排出ゼロ、驚異的な動力性能、抜群の運動性能に加え、住宅の分電盤に接続して電力供給を行なうなど、いろいろな可能性を秘めたすぐれものです。すでに世界で2万台が走っておりますが、今後、急速充電設備のインフラが確立されれば普及速度は一段と加速されるでしょう。
「日産リーフ」は、国内の「2012年次RJCカー オブ ザ イヤー」、「2011~2012日本自動車殿堂カー オブ ザ イヤー」、「日本カー・オブ・ザ・イヤー」に加え、「欧州カー・オブ・ザ・イヤー2011」、「ワールド・カー・オブ・ザ・イヤー2011」も受賞しており、その商品力の高さが世界中から評価されたと言えるでしょう。
日産リーフの「2012年次RJCカー オブ ザ イヤー」受賞を報じる「The RJC Bulletin」Vol.21より。