第14回 「納涼美人図」喜多川歌麿/「当時三美人 冨本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」喜多川歌麿

27、「納涼美人図」喜多川歌麿 寛政6~7年頃(1794~1795)

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 大きな燈篭鬢に勝山髷を結っているのは、遊女であろう。お風呂上がりかもしれない。髪に白い布かなにかで、鬢の部分をしばっている。団扇で扇いでいるところを見ると、暑いのだろう。着物が肩からすこしずり落ちているのも気にせず、涼をとっているのだろう。こころなしか顔がすこし赤みをおびている。黒い着物は絽かなにかで、下に着ているものが透けて見えている。その透けた着物から、左足の先がちらっと見えているのが、艶かしい。幅広の帯、着物の裾には紋と同じ桜が描かれている。右手に巻きついている赤い紐は、団扇の紐で、団扇には撫子が描かれている。遊女の右手にあるのは、銅製の水盤で雲竜が描かれ、石菖(石菖蒲)が植えられている。


28、「当時三美人 冨本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」 喜多川歌麿 寛政5年頃(1793)

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 描かれているこの三人は、寛政(1789~1801)の三美人といわれた女性たちである。右下は浅草随身門近くの水茶屋難波屋のおきた、真ん中は富本節の名取りで吉原芸者の豊雛、そして左は両国米沢町の水茶屋高島おひさである。ただ、寛政の三美人を、真ん中の富本の豊雛でなく、芝神明前の水茶屋菊本おはんという説もある。
 それは、斎藤月岑げっしんが書いた『武江年表』の「寛政年間記事」のところに、「○浅草寺随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島のおひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の聞え有りて、陰晴をいとはず此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭いんてい云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひて、年の市の群衆に似たり。おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかりき。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり。その家の婦にてありし)。」と書かれているからであろう。歌麿が描いた寛政の三美人は、菊本のおはんより、どうみても富本の豊雛の方が多いように思える。
 いずれも、歌麿が描いたことで大評判になったのであろう。中でもおきたの美しさが光っていたのか、大人気だったことは、前述した『武江年表』でもあきらかである。当時、おきたは十六歳、おひさは十七歳であった。三人とも髪型は、燈籠鬢に潰し島田である。
因みに、この三人の見分け方であるが、高島おひさは、桐紋で、簪にも桐紋ついている。難波屋おひさは、柏の紋がついた団扇を持っていたり、簪も柏紋になっている。また、富本豊雛は桜草の紋である。この寛政の三美人以降、文化、文政期には、三美人というタイトルで登場する女性たちはいなかったように思う。世間を騒がせるような、秀でた美人がいなかったのかもしれない。


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