2015年12月アーカイブ

手紙

送られてきた封筒をあけると、文庫本が一冊入っていた。面白い本です。237ページにきみがいるよ。と書かれた付箋が表紙に貼り付けられている。文庫本のタイトルは『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』(H・G・ポンティング著 長岡祥三訳 講談社学術文庫 2005)。挟んである栞に導かれて開いた237ページを見ると、明治に生まれたならこれが自分だと感じられる若い女性が、ポンティングの撮影した一枚の写真に固定されてそこにいた。何の苦もなく100年以上前に呼びもどされる。

ポンティングは1910年スコット大佐の第二次南極探検隊の記録写真を撮った写真家として知られているが、その前の1901(明治34)年から1906(明治39)年にかけてアメリカの雑誌の特派員として何度か日本を訪れ、1910年にはその見聞を撮影した写真とともに一冊にまとめて出版した。タイトルは"In Lotus - Land Japan"。lotus landは桃源郷という意味だが、lotusの実を食べると夢見心地になるといわれるからなのかな。届いた文庫本はこの本の翻訳(抄訳)なのでした。日本各地を旅し、浅間山の噴火に遭遇しても、ポンティングにとって明治の日本は美しい風景とそこに生きる人々の素質によって桃源郷と呼ぶにふさわしいところだった。『この世の楽園・日本』という文字を2011年の原発事故を知ったあとで眺めると、胸がしめつけられる。

私の原型ともいうべき彼女の写真は「日本の婦人について」と題された章のはじめに載っている。十代の後半だろうか。日本髪に無地の着物、帯をお太鼓にしめ、畳の部屋に敷かれた座布団の上に、左半身をこちらに向けてきちんとすわっている。顔は向かって左を向いて入る。右手に小筆、左手には巻紙を持って、手紙を書いている最中だ。細かい桟の障子の窓が正面にあり、出窓には盆栽の鉢がひとつ。右の膝の前の真鍮製らしき小さな火鉢には鉄瓶がかかっている。左の膝の手前寄りには硯の入っている塗りの箱があり、その蓋の上には書き終えた手紙を入れるための封筒の束が置いてある。そして、硯の箱の右隣りにあるのは急須とお菓子ののっている塗のお盆。必要なものはすべてそろっている。湯呑み茶碗はすでに彼女の手元に置かれているから、鉄瓶のなかで沸いているお湯でいれたお茶を飲みつつ、すらすらと筆はすすんでいるのだ。彼女の手元を見て、机の上に置いた紙に小筆で書くと、まったくうまくいかなかったことを思い出す。小筆はこの写真のように、宙に浮かせて軽く使うのがよいのだ、きっと。真剣だけれどちょっと力の抜けている表情が明るい。書きながら手紙の相手を思っていることがわかる。

実際に彼女くらいの年だったころを思い出してみると、時間としては明治よりいまのほうが近いけれど、暮らしの実際は明治のほうがずっと近かったことに気づく。いまともっともかけ離れているのは通信手段だろう。当時は電話だって一家に一台あるのが普通とはいいがたかった。それはほんとうに必要な連絡のときだけに使われる特別なもので、無駄話や長電話などもってのほか。そういう個人的な必要を担うのは手紙だった。

歌人でアイルランド文学の翻訳者でもあった片山廣子は手紙を「小さい芸術」と呼んでいる。
「言葉はなりたけ簡単に、言葉の上の技巧は捨てて、全体のトーンの上にある苦心をしなければなるまい、感傷的の形容詞は捨てて、その折々のまことの感情を言外に現はす努力もしなければなるまい。そんな注文をいへば、それは詩をつくるよりも小説をつくるよりも、もつとむづかしい事かも知れないが、とにかく、私どもは、もつとよい手紙を、もつとらくに書きたい、手紙によつて、与へ、また与へられたい。それは私どもの手紙に対する心持をもつとあたらしくしなければなるまい。......手紙といふ小さい芸術の中に力とよろこびを感じることが出来るほどに私どもが若がへることは出来ないものだらうか。
 物質的の報酬のないところには些の努力も惜しむといふほど、私どもはそれほどさもしい心は持つてゐないつもりである。報酬の目的なしに、互に与へ、与へられるよろこびは、いつの時代にも、特に人類に恵まれたる幸福でなければなるまい。」(「小さい芸術」)

転勤族の父親の娘だった私は、中学入学からちょうど一年間を福島市で過ごした。福島を離れる日、駅まで送りに来て泣いていた同じクラスの親友が最初にくれた手紙の一節をいまも覚えている。「あなたのもみじのくさったような手を握りたくなりました」。発育不良だったのか背も低く痩せっぽちだったのに、なぜか手だけは大きくてしかもふっくらしていたのだ。ふたりで手をつないで歩きながら、ささいなことで笑ってじゃれあっていた短い日々のことを、まだ友だちもできない知らない土地で思った。なつかしいというよりはせつない。彼女には二度と会う機会がないままだ。どこでどうしているのかな。

そのうち真性な思春期を迎えて、そのあいだにラブレターをたくさんもらった。まあ、男子はみな発情していたのだろうからしかたがない。どう返事を書いていいのかわからないし、そもそも返事を要求されているのかどうかわからなかったので、一度読んだら段ボール箱に入れて押入れに入れておいた。おとなになるまで箱のまま手紙を取っておいて、しかるべきときに全員に送り返してみたらどうなるだろうとふと邪悪な考えが浮かんだりももしたが、そんな関心が長続きするわけはない。次の引っ越しのときにみんな燃やしました。ぼんやりしたこの私でさえ、もらった手紙を送り返してみようかなどと、たとえ一瞬とはいえ考えたりするのだから、手紙は意図しない危険もはらんでいる。

夏目漱石が「手紙」という短編小説を書いたのは、ポンティングの"In Lotus - Land Japan"がロンドンで出版された次の年、1911(明治44)年だ。漱石は前の年に療養中の修善寺で吐血して意識を失い、死を体験したと言われる。「手紙」はそのあとに書かれたもので、タイトルそのままに手紙が主人公といってもいい、軽い味わいの小品だ。ある夫婦が身内のようにかわいがっている青年重吉に結婚の世話をしている。相手の女性お静さんの両親は「金はなくってもかまわないから道楽をしない保証のついた人でなければやらない」という。重吉は「全面が平たく尋常にでき上がっている」人物なので、「遊ぶとは、どうしても考えられない。」ところが、である。重吉が滞在していたいなかの旅館を訪れた夫のほうが鏡台の引き出しの奥に入っていた手紙を偶然に発見してしまう。手紙は「細かい女の字で白紙の闇をたどるといったように、細長くひょろひょろとなにか書いてある」。文面からくろうとの女性が書いたものだとわかり、気楽に読んでいるが、さいごに宛名が重吉の名前になっていてびっくり、さてどうする。「とにかく遊ぶのがすでに条件違反だ。お前はとてもお静さんをもらうわけにゆかないよ」と言い渡された重吉は、この縁談に未練があるのか泣きつくのだが、重吉自身のそうした態度ゆえにこそ縁談は破綻するであろう。なにかの事件をおこした人がよく「あんなにマジメでおとなしかったのに」と評されるが、「全面が平たく尋常にでき上がっている」という重吉にはおなじ危うさをぞんぶんに感じる。

漱石の「手紙」は、モーパサンの「二十五日間」と題する小品とプレヴォーの「不在」という端物のふたつと同じ経験をした、というところから始まっている。「二十五日間」も「不在」も宿屋の部屋のひきだしから手紙が出てきたのがきっかけとなり、手紙はそっくりそのまま作品のなかに転載されていると書かれている。作家が手紙を書いた人も受けとった人も知らなければ、それもいい。ためしに青空文庫のトップページの右上にある検索窓口に「手紙」と入力して検索してみると、約4360件もヒットした。重要な文学的アイテムであることがはっきりとわかる。

風が吹いてきた。さあ、楽園の明治から原発事故後の平成へと帰ろう。『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』を送ってくれた彼には電話でお礼を言ったけれど、手紙も書いてみようと思う。もっとよい手紙を、もっとらくに書きたいと願って。


◆夏目漱石「手紙」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card798.html

◆片山廣子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html#sakuhin_list_1

 「結納って新郎から新婦に渡すんだっけ」「さあ、逆じゃない?」「今でもやってる人いるの? 聞いたことないけど」40代の女友達の結婚パーティでのやりとりです。私も横で聞いていて何が正解か咄嗟に答えられませんでした。現代人は、そのくらい結納という風習からは遠ざかってしまっているのです。結婚情報サイトを見たら現代の結納実施率は3割で、なぜか九州と福島が実施率が高いようです。オーソドックスな結納品は、柳でできた樽、白扇子、白い麻ひも、昆布、するめなど......。樽などその後置き場所に困りそうで、白木の献上台に飾り付けたりと何かと面倒そうです。
 その結納品は、江戸時代から脈々と続く伝統でもあります。
「家内来多留ちいさい恋はけちらかし」
 家内来多留(やなぎだる)、柳の木でできた樽です。家の内に福が来る、という意味があるそうです。江戸時代も樽や昆布(子生婦)、するめ(寿留女)などを結納品としていました。その結納パワーで、過去の遊びの恋の残り香など消し去ってしまいます。結納の儀式は呪術的です。
「釣台で娘に錠をおろしに来」
結納品は釣台で運びます。それと共に、妻の貞操も夫の監視下に......。
「昆布寿留女足手がらみの始め也」
「結納をおっかなさうに覗て見」
「もらふ結納を遠く見て居る」
するめや昆布、かつおぶしやあわびを干したものが台に並ぶ図はシュールで、若い娘さんにとっては不気味に見えることでしょう。遠くから伺う様子が目に浮かびます。
「結納を見切ると娘ししに行き」
結納を観察した後、トイレに行く娘。新婦というよりまだ少女のようです。
 婚礼前には、お歯黒も準備しなければなりません。
「水茶やもすんで七所よりもらい」
「七軒のほかは無沙汰なその当座」
 はじめてのお歯黒用の液、初鉄漿は近所の七軒の家をまわり、少しずつ液をもらうという風習が。それぞれの家庭の、夫婦円満のパワーをわけてもらうのでしょうか。現代の都会ではたぶん不可能です。
「仲人が来て田を山に結ひ直し」
娘から嫁に変身するため、髪も島田髷から勝山髷にイメージチェンジ。島田髷は、あんみつ姫を彷彿とさせる可憐なスタイルで、勝山髷は、大きな輪っかに結っていてワイルドです。女として度胸が据わったような髪型です。
「桐の木のもくで娘の年が知れ」
「十五六だろふと杣(そま)は桐を切り」
杣(そま)は、木こりの意。娘が生誕記念で植えた桐を切って箪笥を作るので、年輪で娘の年がバレる、という句です。年増になるほど立派な家具ができそうです。それにしても当時は庭付きの家が多かったのでしょうか。桐を植えて、オーダーメイドの家具を作るなんて、江戸時代の人は全員セレブといっても過言ではありません。
「大丸で値段を聞くのははづかしさ」
「半分は駿河へ運ぶ仕度金」
江戸時代、栄えていた呉服屋、大丸や駿河で婚礼衣裳を注文。大丸は今の大丸デパート、駿河は越後屋から三越になったと思うと、歴史を実感します。デパートの呉服売り場こそ真髄なのかもしれません。
 さらに盃事(というと今は暴力団の風習が思い浮かびますが......)を指南役の老嬢と練習しなければならず、婚礼前は忙しいです。
「盃のならし白髪の嫁が出来」
 続いて「雛分け」という風習が。姉妹で嫁入り前にお雛様を分けて、それぞれ嫁入りの時に持っていきます。雛人形、公平に分配するのが難しそうですが......お内裏様とお雛様で分けたら縁起悪いです。
「血まなこになって姉妹ひなを分け」
「天顔のうるはしいのを姉は分け」
「はづかしさ時候にもれた雛を出し」
 シーズンでないのに雛を出す気恥ずかしさを詠んだ句です。
「ひなわけに母手を出して叱られる」
 「雛分け」は姉妹間のシビアな交渉があったようです。
 それにしても結納や盃事の練習、お歯黒で近所回り、桐を伐採、衣裳発注に雛人形分配......など結婚の準備が現代人の100倍位大変な江戸時代の人。先祖がこれらの行程をこなして嫁いでくれたおかげで自分がいると思うと、その労苦に感謝してもしきれません。また、結婚前にこれだけやれば後戻りできないというか、簡単に別れられません。マリッジブルーになる暇もないです。江戸時代は儀式と呪術で夫婦の絆が固められていたのです。

第15回「結納のイニシエーション」edo15.jpg
 
 
  

15、「新吉原年中行事 十一月初雪酉の日 海老屋内愛染」 溪斎英泉 文政末~天保頃

第8回 15渓斎英泉 新吉原年中行事 海老屋内愛染.jpg

 格子に手をついて、差し出された酉の市の熊手を見ているのは、新吉原の海老屋の遊女、愛染である。島田髷に鼈甲製の簪、左右6本と二枚櫛、その櫛のところにも簪を立に1本挿している。牡丹模様が額縁のようになっている着物には、大小の蝶が乱舞している。中着は、絞りの麻の葉模様に桜や楓が描かれ、帯の片方が床に垂れ下がっている。これだけの衣装と豪華な髪飾りから、上級の遊女であることが分かる。
 初雪の降る酉の日に、いいお客がついてもっと稼げるようにと熊手を差し入れているのは、馴染みの客かもしれない。ちょっとしたプレゼントである。
 足元にある四角い包みは、白粉の美艶仙女香である。これは美艶仙女香の発売元坂本氏と浮世絵の版元がタイアップしたのだろう。いろいろなところに登場している。遊女の顔の美しさと、顔の白さは、この美艶仙女香が演出している、といったところであろう。こま絵には、初雪の降る新吉原が描かれている。今のように暖房設備のない時代、さぞ寒かったに違いない。

16、「美人東海道 沼津宿 十三」 溪斎英泉 天保13年(1842)頃

第8回16渓斎英泉 沼津宿 十三 (美人東海道) .jpg

 剃刀を顔に当てているのは、宿場の遊女であろうか。桜模様の着物を着て、立て膝には手拭が置いてある。髪は潰し島田で、前髪に櫛を挿している。鏡台の上には、房楊枝と歯磨粉の入った箱、その下には、髪を結うのに使う元結などが見えている。また、引き出された引き出しには、剃刀箱、紅猪口であろうか、ちらりと見えている。面白いのは、この引き出しが右に引き出されているところだろう。普通、引き出しは手前に出るが、そうすると、鏡にうつる顔が遠くになってしまう。右に引き出せば、色々な道具も使いやすく、鏡に映る自分の顔も近くに見える、という寸法である。鏡台の左には白粉の美艶仙女香、右には水の入った嗽茶碗であろう。奥の黒い箱は、柄鏡の上蓋かもしれない。
 書かれている句は「剃刀の手あわせかろし春の風」で、「手あわせ」とは、かみそりの刃をみがくため、手のひらにこすり合わせること、である。沼津の宿の春の様子か、山には雪がなく、木々の枝にはこれから葉が伸びて、日1日暖かくなっていくのだろう。なにか、のんびりした風景である。

★お知らせ
2004年に発売して長らく重版をしていませんでした『結うこころ 日本髪の美しさとその型』(2500円+税)を11月25日、再販いたしました。ご希望の方は、ポーラ文化研究所のホームページから入って頂くか、直接お電話(TEL 03-3494-7250)頂ければお届け致します。

※収録画像は太田記念美術館所蔵。無断使用・転載を禁じます。

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