たけのこ

春はいそがしい。桜の花があわただしく散ると、すぐにたけのこが出てくるから。


 たけのこは はじめ じびたの したに いて、あっち こっちへ くぐって いく もので あります。
 そして、あめが ふった あとなどに ぽこぽこと つちから あたまを だすので あります。
「たけのこ」新美南吉


たけのこが生えてくる「じびた」を自宅の庭として所有している友人がふたりいる。だからたけのこが出る時期は楽しい。ひとりは毎年掘れたてを数本届けてくれる。くるまれた新聞紙を開いたとたんに、目の前で太いたけのこがにょっきりとさらに大きく伸びるような気がする。気がするだけかもしれないが、実際にそうであっても不思議ではないと思う。

もうひとりは毎年おこなわれる自宅でのたけのこパーティに呼んでくれる。二つの大きなテーブルに並べられた料理のすべてに庭で掘りたてのたけのこが入っているのを見ると、毎年圧倒される。和風、中華風、イタリア風、それから各種カレーなどなんでもあって、どれから食べようかと毎年悩む。たけのこが新鮮でどれもこれもおいしいのだ。もちろんたけのこご飯もあり、いつも最後はこれに決めている。

庭に出て、靴底に意識を集めて歩いていると、硬いちいさなものを感じる。地表にはまだなにもないが、もうすぐ出てくるたけのこの頭がそこにあるのだ。この状態が掘るのにもっともいいのだ、と友はおしえてくれる。つまり、おししい。竹林から出ている地下茎は遠くまで伸びているが、遠いところよりは近いところに出てくるもののほうがおいしいのだ、とも友はおしえてくれる。庭のまんなかでは火が熾されていて、掘りたての一本が皮ごと焼かれているし、竹筒には日本酒が満ちている。だからその日がたまたま春によくある薄ら寒い日であっても、心配はいらない。すぐにあたたまります。

ふたりの友によって我が家の一年分のたけのこは供給されている。この時期に食べるだけで満足できてしまい、次の年まで買ってまで食べる気にならない。短い時間に大きくなるもののエネルギーが生きつづけているのだろうか。食べる時期をあっという間に過ぎて、たけのこはエネルギーのままに竹になってしまう。この待ったなしのエネルギーこそ竹なのだということもできそうだ。


竹  萩原朔太郎

 光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。


吉川英治「折々の記」のなかの「夏隣り」は母の日にちなんで母性について書かれたものだ。「やはり女性は"母の座"を占めることに、悔いのない生涯の率が多さうである。」というような理屈の部分は読んでいてあまり楽しいものではないが、母という人の記憶を書いた部分は、「夏隣り」というタイトルとともに忘れがたい。


 ぼくの母は、とうのむかしに、この世にゐない。だが、夏隣りともなつて季節の野菜物、たとへば、味噌汁のなかのサヤゑんどう、竹の子めし、新そらまめ、若い胡瓜モミなど、母が好きだつたお菜に會ふと、ふと、母が胸をかすめる。
 母はビールの一口を美味がつた。初夏の夕、夕方の掃除や打水もすました母と、青すだれの小窓を横に、よく一本の小瓶を二人して一杯づつ酌み分けた。


夏隣りの季節の野菜物には、ちゃんと「竹の子めし」も入っている。新そらまめにも苦い胡瓜モミにも、たけのこと同じように夏に向かうエネルギーがあふれていて、「夏隣り」という言葉の意味を実感する。そしてビールは夏隣りから夏の初めに移行してからのものだ。すだれも新しくて青い。夕方の掃除や打水など、当時の母は忙しそうだけれど、夏隣りから初夏に変わっていく季節や、息子と分かち合って飲む小瓶のビールの一口の美味さとも仲の良い忙しさだ。パソコンの前にじっとすわって、ときに頭をかきむしりながら何かやっている今日的な忙しさとはどこか根本的に違う。そんな母の労働は息子の記憶にどのように刻まれるのだろうか。この世の行方が気になってくる。

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このページは、kinamiが2015年4月21日 14:58に書いたブログ記事です。

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