数かぎりなくある本の中から一冊を手にとって、これを読もうと思うのはその本がなんだかおもしろそうと感じるからだ。なにかが自分のアンテナにひっかかる。読んでみると、おもしろいのもあり、そうでないのもある。著者のことを知らずに読んでおもしろい本だったら、書いたのはどんな人なのか知りたくなる。奥付の上あたりに小さな文字で数行の「著者略歴」をじっくりと見るのはそんなとき。ふつうは生まれた年と業績くらいしか書かれていないので、ほとんどなにもわからない。
坂口安吾の「てのひら自伝――わが略歴――」は、こんなふうに始まる。「私は私の意志によって生れてきたわけではないので、父を選ぶことも、母を選ぶこともできなかった。/そういう限定は人間の一生につきまとっていることで、人間は仕方なしに何か一つずつ選ぶけれども、生活の地盤というものは人間の意志とは関係がない。」なるほど、ではあるけれど、坂口安吾に限らず、この世に生まれ落ちた誰にとってもおなじ条件だと思う。それを意識し続けるかどうかは人それぞれだとしても、自分の略歴をこんなふうに始めるのは意識のし過ぎではないのかな。
反対に具体的でおもしろいのは直木賞としてその名を冠している直木三十五の「著者小傳」だ。本名は植村宗一というところから始まって、
「筆名の由來――植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と稱す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。/翌年、直木三十二。この時月評を二篇書く。/震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦樂」の編輯に當る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。/三十四を拔き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映畫藝術家協會」を組織し、澤田正二郎、市川猿之助等の映畫をとり、儲けたり、損をしたりし――後、月形龍之介と、マキノ智子との戀愛事件に關係し、マキノと、袂を分つ。/キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文學專心となる。
習癖――無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時頃より、朝八九時まで書き、讀み、午後二三時頃起床する日多し。」
筆名をいくつか持っている作家はいるけれど、毎年筆名を変える人はいるのだろうか。夜中に布団のなかで臥して書いた日々のことを想像すると、なんだか笑えて、書いたものにも興味は伸びていく。
『すべての終わりの始まり』(国書刊行会 2007年)を読んだときのことだった。著者のキャロル・エムシュウィラーは1921年生まれで、作家になったのは50代になってからだという。さらにSFという手法をなによりも必要としたと、略歴にある。そのことと関係があるとはっきりわかるような変な話ばかりな短編集だ。「わたし」がつきあわなくてはならないはめに陥る相手が人間とは限らない。どこの誰とも何ともよくわからない謎のいきものだとしても、関係を持つことは謎ではなく当然であるという一貫した態度がある。
あとがきを読むと、最初の著書(『私たちの大義に喜びを』1974年)のための自筆略歴が紹介されていた。すばらしいのでそこだけちゃんと書き写しておいた。紹介しましょう。
キャロル・エムシュウィラー 自筆略歴
なぜか私は三十近くなるまでものを書かなかった。
最初にアートと音楽を試した。
三人弟がいることで、もろもろの説明はつくだろう。
自分が妻と母になるべきか、作家になるべきかわからなかった。
断筆しようと三、四回試みたが、やめられなかった。
私は現代詩人が好きだ。
いつも思っているのだが、ほかの作家は自分で洗濯をするのだろうか? 皿を洗うのか? 壁のペンキ塗りを自分でするのだろうか? たとえばサミュエル・ベケットは? ケイ・ボイルは? アン・ウォルドマンは? アナイス・ニンは?
書くようになってまもなく最初の子が生まれたので、書き手としてはつねに戦ったり、すねたり、叫んだり、わめいたり(ときにはいい子であろうとしたり)して、書く時間がないことに相対してきた。
本書に収録した作品はすべて食卓か寝室で書いた。
これまで私は自分の部屋を持ったことはない。
サミュエル・ベケットやアナイス・ニンの日常と作品は別なものだとは思うけれど、ときにこんなふうに考えてみることは楽しい。わたしも仕事はすべて食卓か寝室でやっているし、自分の部屋を持ったことはない。若い頃は自分の部屋がありさえすれば、と思ったりもしたが、こうした略歴を読むと、人間の出来の違いはとりあえず棚にあげて、それがなくてよかったのかもしれないと思えてくる。環境をととのえることは必要ではあるし、ついそちらを優先したくなるけれど、最初にやるべきことではないのかもしれない。
アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』(DHC 1998年)を読んだときも、訳者あとがきに彼女の愉快な自己紹介文があった。こちらは少し長かったので書き写すのではなく、コピーをとった。「インドの南西部ケララ州に祖母が営むピクルス工場で育ったわたしは、カレー粉を大袋に詰めてラベルを貼るプロフェッショナルとして社会への第一歩をふみだしました。」と始まるところがいい。それから建築を学び、女優として映画に出たり脚本を書いたりしたあとで『小さきものたちの神』を書き、ブッカー賞を受賞した。その後は開発反対運動のノンフィクションを書いたり、反グローバリズムの活動をしている。それらの活動のすべてが自己紹介文の最初のセンテンスとすんなり繋がっていると思う。
こうして本人によって書かれた略歴によって、二人は忘れがたい作家となった。生まれる環境を選ぶことはできないけれど、二人がおもしろい小説を書いたという事実、またその小説のおもしろさは環境と無関係ではないという事実には刺激される。与えられた環境をまっすぐに受け止められなくても、この二人のように、前に進むことの推進力にすることはできるのだから。