2015年3月アーカイブ

略歴

 数かぎりなくある本の中から一冊を手にとって、これを読もうと思うのはその本がなんだかおもしろそうと感じるからだ。なにかが自分のアンテナにひっかかる。読んでみると、おもしろいのもあり、そうでないのもある。著者のことを知らずに読んでおもしろい本だったら、書いたのはどんな人なのか知りたくなる。奥付の上あたりに小さな文字で数行の「著者略歴」をじっくりと見るのはそんなとき。ふつうは生まれた年と業績くらいしか書かれていないので、ほとんどなにもわからない。

 坂口安吾の「てのひら自伝――わが略歴――」は、こんなふうに始まる。「私は私の意志によって生れてきたわけではないので、父を選ぶことも、母を選ぶこともできなかった。/そういう限定は人間の一生につきまとっていることで、人間は仕方なしに何か一つずつ選ぶけれども、生活の地盤というものは人間の意志とは関係がない。」なるほど、ではあるけれど、坂口安吾に限らず、この世に生まれ落ちた誰にとってもおなじ条件だと思う。それを意識し続けるかどうかは人それぞれだとしても、自分の略歴をこんなふうに始めるのは意識のし過ぎではないのかな。


 反対に具体的でおもしろいのは直木賞としてその名を冠している直木三十五の「著者小傳」だ。本名は植村宗一というところから始まって、
「筆名の由來――植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と稱す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。/翌年、直木三十二。この時月評を二篇書く。/震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦樂」の編輯に當る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。/三十四を拔き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映畫藝術家協會」を組織し、澤田正二郎、市川猿之助等の映畫をとり、儲けたり、損をしたりし――後、月形龍之介と、マキノ智子との戀愛事件に關係し、マキノと、袂を分つ。/キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文學專心となる。
習癖――無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時頃より、朝八九時まで書き、讀み、午後二三時頃起床する日多し。」
筆名をいくつか持っている作家はいるけれど、毎年筆名を変える人はいるのだろうか。夜中に布団のなかで臥して書いた日々のことを想像すると、なんだか笑えて、書いたものにも興味は伸びていく。

『すべての終わりの始まり』(国書刊行会 2007年)を読んだときのことだった。著者のキャロル・エムシュウィラーは1921年生まれで、作家になったのは50代になってからだという。さらにSFという手法をなによりも必要としたと、略歴にある。そのことと関係があるとはっきりわかるような変な話ばかりな短編集だ。「わたし」がつきあわなくてはならないはめに陥る相手が人間とは限らない。どこの誰とも何ともよくわからない謎のいきものだとしても、関係を持つことは謎ではなく当然であるという一貫した態度がある。

 あとがきを読むと、最初の著書(『私たちの大義に喜びを』1974年)のための自筆略歴が紹介されていた。すばらしいのでそこだけちゃんと書き写しておいた。紹介しましょう。

キャロル・エムシュウィラー 自筆略歴

なぜか私は三十近くなるまでものを書かなかった。
最初にアートと音楽を試した。
三人弟がいることで、もろもろの説明はつくだろう。
自分が妻と母になるべきか、作家になるべきかわからなかった。
断筆しようと三、四回試みたが、やめられなかった。
私は現代詩人が好きだ。
いつも思っているのだが、ほかの作家は自分で洗濯をするのだろうか? 皿を洗うのか? 壁のペンキ塗りを自分でするのだろうか? たとえばサミュエル・ベケットは? ケイ・ボイルは? アン・ウォルドマンは? アナイス・ニンは?
書くようになってまもなく最初の子が生まれたので、書き手としてはつねに戦ったり、すねたり、叫んだり、わめいたり(ときにはいい子であろうとしたり)して、書く時間がないことに相対してきた。
本書に収録した作品はすべて食卓か寝室で書いた。
これまで私は自分の部屋を持ったことはない。

 サミュエル・ベケットやアナイス・ニンの日常と作品は別なものだとは思うけれど、ときにこんなふうに考えてみることは楽しい。わたしも仕事はすべて食卓か寝室でやっているし、自分の部屋を持ったことはない。若い頃は自分の部屋がありさえすれば、と思ったりもしたが、こうした略歴を読むと、人間の出来の違いはとりあえず棚にあげて、それがなくてよかったのかもしれないと思えてくる。環境をととのえることは必要ではあるし、ついそちらを優先したくなるけれど、最初にやるべきことではないのかもしれない。

 アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』(DHC 1998年)を読んだときも、訳者あとがきに彼女の愉快な自己紹介文があった。こちらは少し長かったので書き写すのではなく、コピーをとった。「インドの南西部ケララ州に祖母が営むピクルス工場で育ったわたしは、カレー粉を大袋に詰めてラベルを貼るプロフェッショナルとして社会への第一歩をふみだしました。」と始まるところがいい。それから建築を学び、女優として映画に出たり脚本を書いたりしたあとで『小さきものたちの神』を書き、ブッカー賞を受賞した。その後は開発反対運動のノンフィクションを書いたり、反グローバリズムの活動をしている。それらの活動のすべてが自己紹介文の最初のセンテンスとすんなり繋がっていると思う。

 こうして本人によって書かれた略歴によって、二人は忘れがたい作家となった。生まれる環境を選ぶことはできないけれど、二人がおもしろい小説を書いたという事実、またその小説のおもしろさは環境と無関係ではないという事実には刺激される。与えられた環境をまっすぐに受け止められなくても、この二人のように、前に進むことの推進力にすることはできるのだから。

 江戸時代の親は子どもにどんな習い事をさせていたのでしょう。過去をひもとく前に、2014年の子どもの習い事ランキング(ケイコとマナブ.net)を見たら、1位は水泳、2位は英語・英会話、3位は学習塾・幼児教室、そして4位に来てピアノ、と実用性重視な傾向でした。数十年前はとりあえず女子はピアノを習わせられていたように思います。全く才能がないのを自分でもわかっているのに、毎週怖い先生のところに通うのが苦痛だった記憶がよみがえります。あとは算盤や習字、公文もメジャーでした。公文に通うと、部屋を提供して採点するだけの公文の先生が子ども心にラクな仕事に見えて、羨ましかった記憶が......向学心や覇気もない子ども時代でした。
 昭和のピアノ、に該当するのが、江戸の三味線です。とくに関東圏では盛んに女児に習わせていました。庶民でも一芸に秀でることで、武家に嫁げたり良縁のきっかけになると思われていたようです。今、三味線が弾けたら、おっ、と思われるかもしれませんが、それだけで、結婚とは結びつかないでしょう......。
「岡さきをへんな調子でひいて居る」
「指をよく見やとおかざき師匠ひき」
「岡崎を子の弾く程は乳母もひき」
「おかさきを暗闇でひく御上達」
初習いには「岡崎」という小唄が用いられたそうです。ピアノでいう「エリーゼのために」みたいなものでしょうか。これだけ川柳に出てくるので、当時の人はすぐにメロディが脳内再生されるほど一般的だったのだと推察します。
 また、上品な琴に比べて、三味線はちょっと色気付いた習い事だったようです。
「さらひ手の多いは稽古所の娘」
というのは、三味線を習う女子は誘惑が多い、という意の川柳。持っているだけで女度が上がるモテ楽器です。「おこと教室」を「おとこ教室」と見間違えがちなので、言霊的にてっきりお琴の方がモテると思っていました......。
「三味の弟子どぬかったのに供が付き」 
「どぬかる」というのは今でいうブスという意味らしいです。語感からしてブスです。見た目がいまいちでも、三味線を習っていると男子をはべらせられるとは......。三味線の音色に魔力が宿っているのでしょうか。三味線の皮はかつて猫の皮が用いられていたので、もしかしたら猫の魔性かもしれません。
「岡崎を八つ乳でひいてしかられる」
「八つ有乳は張度たんと出る」
八つ乳というのは、猫の四つの乳のある皮を表裏に張った三味線だそうです。猫好きとしては涙なくしては読めません......。
 いっぽう、琴は三味線より格式の高い家の娘が習う傾向にありました。免許を取るのにも金銀何分かと費用が定められて、相当お金がかかっていたようです。
「此町のゑいゆふ琴の師がかよひ」
英雄家とは公家を表しています。セレブな家庭の習い事。現代のバイオリンかもしれません。
「九尺店琴を習わせそねまれる」
狭い長屋でお琴を習わせていると嫉妬の対象になってしまいます。また、琴は古式ゆかしいからか古くさいとも思われていました。
「琴の弟子壱人もいきな形りはなし」
つまり、琴を習っている人は皆ダサい、というかなり乱暴で辛口な川柳。
「琴を習ふは娘でも浅黄裏」
浅黄裏は、田舎っぽいとか野暮という意味合いがありました。正直、これらの句は庶民の嫉妬な気が......。現代人がSNSに書き込んで憂さ晴らしするように、江戸時代は川柳で発散していたのでしょう。
 また、当時は「労咳」という謎の病気がありました。二十歳前後、性的欲求不満がたまると、食欲が減退し変な咳が出る症状があったそうです。
「琴の音も止んで格子でわるい咳」
「琴に三味引きかへ娘快気なり」
琴を習っているだけではなかなか咳が治まらず、でも三味線を弾いたら治ったという事例もあったとか。三味線の音色で陽気になり、鬱が改善されるという説もあるので、三味線の健康効果が気になるところです(やはり猫の霊験......)。
 楽器以外の習い事では、「手習い」も人気でした。子どもたちは七、八歳になると寺子屋に行き、読み書きを習いました。寺入りは毎年二月の「初牛の日」と決まっていたようです。
「初牛の弟子に四角な顔ハ無し」
新入生は皆あどけない丸顔でした。ほほえましい光景です。
「初牛に七千両の手をもらひ」
というのは、「いろはにほへと」の一文字一文字に千両の価値がある、という意味。日本語を大切にしていた当時の人々の姿勢に背筋が伸びる思いです。
寺子屋で一日の勉学時間は六時間程度。八ツ時(二時半)が下校時間でした。
「八ツの耳ふり立てて聞く手習い子」
「手習いの跡ハ野分の八ツ下り」
早く勉強から解放されたい気持ちは当時も今も変わりません。教室から飛び出た子どもたちが走って帰途につく光景が目に浮かびます。
 また、「素養」として「源氏物語」や「伊勢物語」「蜻蛉日記」なども読むことを推奨されていました。清少納言の「枕草子」をもじり、「まくらぞうし」という性教育の艶本もあったそうです。嫁入り前の性教育として使われていました。「枕」には今も昔もエロい意味があったんですね。
 それでも新刊を買えるのは裕福な家の子女で、一般人は貸本屋を利用していました。
「清少納言おん筆と貸本屋」
「貸本にくすんだ娘入あげる」
本にハマりすぎて家に閉じこもりがちの娘がモッサリしてゆき縁遠くなる、みたいなシビアな内容でしょうか。今のこじらせ系というべきか、本の世界に没頭するあまり「労咳」が重症化する女子も。
「源氏もちっと解て来て病出し」
「若菜の巻を読みかけて床に付き」
「関屋の巻をよみかけて灸を据え」
「十九帖目を読みかけて床につき」
そしてついに......
「二十冊たらず読本かたみ也」
 二十冊目に行く前に死んでしまいました......(合掌)。この数字は、十九歳の女子の厄年も暗示しています。江戸時代の文化系女子に、こんな呪いがかけられていたとは......。恋愛小説に夢中になりすぎると、それで満足してしまって現実の恋愛や結婚がおろそかになってしまいます。そんな脅しの意味もあったのでしょう。時を超え、小説でも漫画でもネットでもハマり放題の現代人への警告もはらんでいるようです。

20150324【第6回】江戸時代の習いごと.jpg

 
 

20150302【第3回の1】浮世四拾八手太田記念美術館蔵.jpg
5、「浮世四十八手(うきよしじゅうはって)うわきにまよわせる手」溪斎英泉 文政4~5年頃(太田記念美術館蔵)
 遊女二人で、なにやら鏡に映りこんだ顔を見ている。上の遊女は、簪を前髪のところに左右各3本と、後ろの髷のところにも左右各4本挿し豪華さを演出している。櫛は2枚で、未婚女性の結う潰し島田髷を結い、唇には流行の笹色紅が見えている。まだ若い売れっ子の遊女であろう。豪華な衣装を着て、手に懐紙を持っている。
 下で眉を指で隠している遊女は、お歯黒に笹色紅をしている。上の遊女より少し年増かもしれないが、髪型はこちらも潰し島田髷である。指で眉を隠す様子を描いた浮世絵は時々見かける。江戸時代の女性たちは、結婚が決まるとお歯黒をして、子供が生まれると眉を剃ったが、遊女たちも一般女性のような普通の結婚生活に憧れたのかもしれない。
 ただ、高位の遊女たちは、お歯黒はしたが、眉を剃ると老けて見えるので剃らなかったのである。下の遊女は唐花に額縁模様の着物を着ているが、たぶん中着であろう。身支度の途中である。題名の「うわきにまよわせる手」というのは、客に身請けをさせ、子供などが出来た時、眉を剃ると、こんな風になるというところを見ているのだろうか。いろいろな手管を考え中かもしれない。

20150302【第3回の2】時世美女競 東都芸子 太田記念美術館蔵.jpg

6、「時世美女競(いまようみめくらべ) 東都藝子」溪斎英泉 文政8年(太田記念美術館蔵)
 黒い柄鏡を膝にあて、左手で抱えているのは、芸子とあるので、橘町(中央区日本橋橘町のこと)あたりの芸者であろう。大きな潰し島田髷を結い、下唇には流行の笹色紅が見えている。鏡に向かって一心不乱に眉を描いている。江戸時代もそうであるが、今でも眉の形ひとつで、表情が変わってくる。化粧の中でも重要なポイントである。
 江戸時代の眉化粧について、詳しく書かれた総合美容読本『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』(1813)には、「眉毛を作る伝―眉毛のつくりかた色々あれども、顔の恰好によりてつくりかたかわれり。短き顔、丸き顔には、ほそく三日月のごとくにし、長き顔、少し大顔のかたには、少しふとく作るべし。あまり太きは賤しく見えて見ぐるしけれども、その顔の恰好によれば、一概(いちがい)にもいいがたし。細き眉は可愛らしく、太き眉は少しこわみて見ゆるもの也。されども細すぐれば取りしまらざれば、その人の恰好によるべし。...」と書かれている。普通、細い眉は可愛く、太いのは怖く見えるが、顔の恰好によるので、一概には言えない、とある。その人の顔形による、ということである。とすると、この瓜実顔の芸者は、少し太めに書いた方が美人に見えるということだろうか。
 また、同じ『都風俗化粧伝』にある眉墨の作り方は、「眉を作る墨の伝―麦の黒穂(むぎの穂のくさりてくろくなりたる也)これを手にてもめば粉となるを、切れたる筆のさきにてこすり付くべし。また油煙の墨を用ゆるもよし。油煙のとりようは、つねの燈火(ともしび)の燈心を一筋か二筋にてともし、その火の上へ紙をあてて油煙をとるべし。燈心多く燈したる油煙は、あらくして宜しからず」と書かれている。つまり、江戸時代後期の眉墨は、麦の黒穂か、または油煙から作ったものだったことがわかる。眉墨専用の刷毛か、お習字に使うような筆に眉墨をつけて描いていた。
 縞模様に「上下対い蝶菱」が描かれた着物。そして紗綾形の襟のついた赤い絞りのような中着が、江戸芸者の粋で華やかな部分を演出している。これから、芸者としての勤めが始まるのか、鏡を見ている表情には、少し緊張感が窺える。


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