明日の天気


 夕方の西の空が夕焼けでバラ色に燃えているときに、そのバラ色の西の空に向かって立つ。それから大きな声で「あ~したてんきにな~れ」と微妙な節をつけて叫び、最後の「れ」と同時に右足に履いている下駄の親指をゆるめて力いっぱい前方に向けて放り出す。着地した下駄の鼻緒が上にあれば、明日は晴れで、鼻緒が下なら雨、と下駄が告げる天気予報だ。明日もいい天気だろうとわかるからなのか、夕焼けがきれいなときにこそ、下駄を放り投げたくなる。ときたま、下駄は横をむいて着地するが、そのときは「曇りだ!」と言いながら笑った。

 いまもテレビや新聞それにインターネットなどで、つい見てしまう天気予報。下駄によるものとはまったく違う理論によっておこなわれているが、毎日のように見ていれば、とことんデータを頼りにしている予報の当たる確率は下駄とそう違わないことがわかっておもしろい。テレビで予報をする人はいつだって確信ありげなのはなぜなのか。自分が言った昨日の予報については、どんなに外れたとしても決してそれには言及しない。彼ら自身が毎日更新されているかのようだ。

 特に明日の天気が気になるわけでもないのだ。明日はどんな天気でもいい。天変地異は別として、どんな天気でもそれなりに生きていけると、いまの私は思う。だとしても、天気予報はなぜにこうも当たらないのか。ほとんどの科学は戦争に勝つために発展してきたものだ、ということを思い出す。天気予報も例外ではない。

 「ユーゴーは『哀史』の一節にウォータールーの戦いを叙してこう云っている。「もし一八一五年六月十七日の晩に雨が降らなかったら、ヨーロッパの未来は変っただろう」と。雨が降って地面が柔らかくなり、ナポレオンが力と頼む砲兵の活動に不便なために戦闘開始を少し延ばしたばかりにブリュヘルが間に合って戦局が一変したと云うのである。これは文学者の誇張であるかもしれないが、こういう例は史上に珍しくはあるまい。同じ筆法で行けば弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦(わがくに)の存亡に多大の影響があったのである。もし当時元軍(げんぐん)に現時の気象学の知識があったなら、あの攻撃はあるいはもう数ヶ月延期したかもしれない。
 日露戦役の際でも我軍は露兵と戦うばかりでなく、満洲の大陸的な気候と戦わなければならなかった。日本海の海戦では霧のために蒙(こうむ)った損害も少なくなかった。こういう場合に気象学や気候学の知識が如何に貴重であるかは世人のあまり気の付かぬ事である。
(中略)
 日本軍がシベリアへ出征するという場合でも、気象学上の知識は非常に必要である。彼(か)の地における各時季の気温や、風向、晴雨日の割合などは勿論、些細な点についても知識の有無に従ってその方面の準備の有無は意外の結果を来たすであろうと考えられる。」
「戦争と気象学」寺田寅彦

 宇宙には気象衛星がいくつも打ち上げられているのだから、こうした必要性はいまも続いているのだろう。だからといって、気象学がどんなに発展しても、私という人間が生きている、その具体的な土地で休みなく移り変わり続ける天候までは予報できっこないと思う。それはまずは目的外であり、そして予測不能なほどに複雑なことだからだ。予報が当たることを期待してはいけないのだ。

 たまたま自分がいるその場所で、刻々変わっていく天気にのどかに気持ちを向けていれば、変化を感じるのはむずかしいことではない。我が家のあたりでは、雨が止むと、すぐに鳥の鳴き声が聞こえる。「咳をしても一人」で有名な尾崎放哉の場合は、鳥ではなくて馬だったようだ。

  峠路や時雨晴れたり馬の声

 尾崎放哉には雨の句がたくさんある。季語を使わなかった人だから、季語ではない、ただの雨、である。ためしに十句選んでみると、季語がなくても意外に季節がわかるものだと思う。

  あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
  雨に降りつめられて暮るる外なし御堂
  船乗りと山の温泉に来て雨をきいてる
  あらしの闇を見つめるわが眼が灯もる
  空暗く垂れ大きな蟻が畳をはつてる
  雨の幾日かつづき雀と見てゐる
  かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
  雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た
  嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる
  雨の中泥手を洗ふ
 「尾崎放哉選句集」より

 机の上にストームグラスを置いている。樟脳などの薬品をアルコールと混ぜた液体が閉じたガラス容器に入っている。気温や湿度、気圧の変化によって、ガラスに閉じ込められた液体のなかに結晶が出来たり、それが減ったりする。気温が低いときのほうが結晶が大きく育って、そのかたちも変化する。天候の移り変わりは「目にはさやかに見えねども」という場合が多いので、これは変化が結晶となって目に見えるところが好き。毎日写真を撮るといいかもしれないと思うが、実行しないで見ているだけだ。

 私の机の上にあるのはほんの少しだけ科学が入っているオモチャのようなものだが、本物のストームグラスは19世紀には航海のときの天気予報の道具だった。温度計や気圧計などとともにストームグラスの結晶の様子を観察して、迫り来る悪天候を読み取っていたのだ。ビーグル号に乗せられていたのは歴史的な事実で、フィクションでは、ジュール・ヴェルヌ作『海底二万マイル』の新鋭潜水艦ノーチラス号にも搭載されていた。