歩行

 大人になってからはずっと東京で暮らしている。それまでは転勤族だった父の勤務地に連れ回されて、いくつかの地方都市に何年かずつ住んだ。その土地にようやく慣れて友だちも出来たころに引き離されて、どこだかよくわからない知らないところに行き、転校するという繰り返し。これから暮らすことになる見知らぬ土地に長距離列車で行き、新しい家に着いたら、まずはそのあたりを歩きまわる。鼻をひこひこと動かして自分の置かれた場所を確認する犬みたい。家のまわりのことがわかるようになったら、次第に歩く距離をのばして自分との関係を広げていく。そういうときはひとりでなければいけない。車社会はまだ少し先の話で、自家用車というものは例外的な乗り物だった。地方都市の交通機関は必要最小限で、頼れるのはいつだって自分の足だけ。目的地まで歩くときに遠いと思ったことはあるけれど、不便だと感じた記憶はない。身軽なものだった。

 松本で2年間通った中学は、自宅からゆっくり歩いて30分、早足で20分ほどかかった。たまたま引っ越した家が学区域のもっともはずれにあったのだ。いつの間にか途中で友だちの家に寄り、彼女といっしょに学校まで行くのがルートとして定まった。彼女の家までひとりで歩いていくのは松本城の堀に沿った道で、反対側には神社やら教会があり、朝も帰りもほとんどだれも歩いていない。着ぶくれて歩く初冬の朝、お堀の水温より気温のほうがずっと低いので、静かな水面からは水蒸気が立ち上り、曇っている日にはすべてが灰色の霧のなかに幻想的に沈んでいる。そのうちほんとうの冬がやってきて、お堀が完全に凍ってしまうと霧はでない。きっぱりと冷たい空気を鼻から吸うと、鼻の穴の入り口が凍りつく。夏には堀端にはタチアオイやオニアザミが繁茂してたくさんの花をつける。自分の身長以上に丈高く、どれも太くてじょうぶそうな茎。紫色の花はきれいだが、オニアザミの葉はぎざぎざで横に大きくひろがっているし葉の先の刺が鋭利で、素手ではとてもかなわない感じ。毎日見ていると、植物もおそろしいものだと思うようになった。

 こどものころにそのような環境に置かれたせいなのか、歩くのはいまも好きだ。甘糟幸子『野の食卓』はほんの少しだけ野生児に近かったころを思い出させる一冊だ。書かれているのは大人の世界のことだが、野生児だった記憶が理解を助けてくれる。中に、住まいのある鎌倉から横浜まで山を越えて歩く話があり、お弁当と水筒を持ってその道を私も歩いてみたいとずっと憧れている。まず『野生の食卓』というタイトルで出版されたのは1978年と書いてあるから、40年近く前だ。もう同じ風景はないと言っていいと思うが、いつか、きっと、と望みは捨てない。

 今から140年ほども前になる1875年の「養生心得草」というものを青空文庫に見つけて読んでみる。徳島藩の藩医だった關寛(斉)による第一から第十までの心得のなかで歩くことが推奨されている。

  第七 一ヶ月五六度は必ず村里を離れたる山林或は海濱に出で、四五里の道を歩行すべき事。

 明治もはじめのころならば、町の道路だって舗装されてはいなかっただろう。歩くことはあたりまえだったに違いない。それでも週に一度以上は町を離れて自然のあるところまで行き、15キロから20キロくらい歩くべきなのだ。ほとんど一日がかりだろうから、実現できたらほんとうに養生になりそうだ。

 敗戦後の1954年、60年前には三好十郎のずばり「歩くこと」というタイトルのエッセイがある。

「自分の頭が混乱したり、気持がよわくなったり、心が疲れたりしたときには、私はよく歩きに出かけます。」と始まる。そして歩いているうちに「私の感覚は外気と運動のために鋭敏になっていて自分が見たり聞いたり、ふれるものの色や匂いや触感を、ひじょうにゆたかに受け入れ、味わっています。同時に、同じ理由のために、私の感受性は、私が家にすわっていたときのような神経質的な過敏さや不均衡を払いおとしていて、ずっと落ちついた健全なものになっているのです。」

 はい、よくわかります。40年後、60年後、140年後の現在でも、歩くことは健康のためにいいとされていますからね。運動として評価されている歩くことだが、ほんとうのよさはひろびろとした外の世界に身を置くことにあるのだと私には思える。ひとりで歩いているうちにすべての感覚が開放されて、自分とは異質なものを次々と受けとめることができるのだから、パソコンの前にすわってじっと考えているよりもいいアイディアがうかぶ確率が高い。漱石先生の『草枕』だって「山路を登りながら、こう考えた。」という一行から始まっているくらいだ。